2018.06.08 悪口雑言
 「悪口雑言」

 「あっこうぞうごん」と読みます。「人に対して次々と口汚い悪口を言うこと、口をつくままに色々な悪口を言うこと」という意味の四字熟語になります。例として次のような文があげられていました。「次から次へと、機関銃のように、悪口雑言が彼女の口をついて出た。」ついつい思い浮かべてしまいますよね。かつてテレビでも連日のように取り上げられていた元女性国会議員のことを(笑)。怒りにまかせて次から次へと罵声を浴びせている音声が、ICレコーダーに残されていた、というアレですね。教え子の小学生まで、その口ぶりを真似していたほどです。強烈なインパクトを与え、かつ記憶に残ります。そう、覚えようとしなくても覚えてしまう…エピソード記憶に残るのです。ここまで感情があらわになると、否が応でもそれを聞いている人の感情にまで影響を及ぼします。ですから喜怒哀楽を人に伝える際には注意が必要にもなるのです。相手の記憶に深く刻まれてしまうかもしれませんからね。
 どんな怒り方をするのか、というのはその人の品性にかかわってくる問題です。もちろん怒り方だけではなく、喜び方、哀しみ方、楽しみ方それぞれに、品格は現れます。けれどもやはり、相手のあることである「怒り方」については、特に意を用いなくてはならないと思います。「自分の感情なんて自由に表に出せばいい!」という意見もあるでしょう。ですが、自分の感情が自分だけのものではなく周囲にも影響を与える、ということを理解すれば「表への出し方」については慎重に対処すべきであるということが納得できるでしょう。周囲への影響を考えて、周囲への配慮を示すということ。品格というのも、突き詰めれば他人への気遣いということになるのだと思います。「自分がいやだと思うようなことを人にしてはいけない」というルールを守ることが大切なのでしょうね。
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2018.05.07 取りも直さず
 「取りも直さず」

 「東大に合格するなんて子どもの頃から天才だったんでしょう?」何度か耳にした言葉です。私自身が言われることもありますが、東大に進学した教え子君が小学生の頃にどのような学習態度だったのか、というお話をご父母の皆さんにする場合でも、反応として返ってくるケースがあります。もちろんここでの天才という言葉には「非常に優秀」というくらいの意味しかなくて、「小学生の頃からすごくお出来になったでしょう?」という発言と内容は変わらないのですが。それなら秀才という表現でもよさそうなものですが、「秀才を超える」という意味で天才という言葉を使って下さっているのです。「ちょっとやそっとの秀才ではない」というニュアンスをこめて、おっしゃって下さっているわけですね。
 しかしながら、「誰も考えつかないこと」を創造するのが天才だとするならば、東大合格生というのは、そうした「何もないところから、新しいものを生み出してくる」という方向性とは正反対のタイプだと思うのです。正反対というのは文字通りで、「目の前にあるものを、誰にでも分かるように解説する」というのがその真骨頂になります。これは文明開化の時期に東京大学が設立されて以来の重要な役割だと私は考えています。西洋から日本ではまだ誰も見たことも聞いたこともないような新しい考え方や技術が伝えられました。それを「これは取りも直さずこういうことだ」と説明して、皆が「へー、そういうことだったのか!」と理解できるようにすること。このうまく説明する能力こそ、東大に期待され、また東大生が発揮すべき力であると考えるのですよ。
 「Aというのは取りも直さずBということだ」という用法では、Aを説明するために、Bという内容によって、相手を納得させなくてはなりません。「なるほどぴったりと当たる」と相手に思わせなくてはならないのです。そのためには「それはどういうことですか?」という質問をあらかじめ想定して、そうした疑問が出ないように表現を練り直し、簡潔でしかも状況を説明するのに最も適切だと思われる表現を選び取らなくてはなりません。でもそれは、うまく言い換える能力に過ぎませんよね。決して何かを生み出す天才ではないのです。むしろ誰にも理解されない天才の発想を、皆が理解できるように説明するサポーターの役割です。でもこれこそ、国語の読解で最も求められる力ではないでしょうか!


2018.04.10 軌道修正
 「軌道修正」

 筆者の友人に、とある禅寺のご住職がいらっしゃいます。お寺のお坊さんというと、皆さんはお年をめした方というイメージを抱くかもしれませんが、このご住職は小さなお子さんもいらっしゃって比較的若いのです。といっても筆者と同い年ですから、世間的には若いという範疇(はんちゅう)には入らないのですが、お寺の世界では若手で通ってしまいます。学問や政治の世界でも40代はまだまだ「はなたれ小僧」の扱いですから、本家本元の僧侶の世界でしたら、なおさらそうだと言えるのではないでしょうか。そんな若手と目されているお坊さんだからなのか、かなり無茶なお願いが舞い込んだのだそうです。
 「バンジージャンプを飛んでくださらないですか?」テレビ局のディレクターがやってきて出演の依頼をされたそうです。面白そうだから「いいですよ!」とオッケーしたと言うのですが、依頼するほうも依頼するほうですがオッケーするほうもオッケーするほうです(笑)。「何が目的の企画だったんですか?」とたずねると、禅の修行をしているお坊さんは一般人と違って常に平常心でいられるのかどうか?を検証する実験を行いたいという趣旨だそうで、初めてバンジージャンプを体験する一般人とお坊さんとで、その様子についてテレビカメラを通して比較するというのです。「平常心でいられるかということを試すなら、何もバンジージャンプでなくてもいいのでは…」と筆者は思うのですが、テレビ的にはそれが面白いということになるのでしょう。バラエティー番組で、ヘルメットにカメラを仕込んだ芸人さんがバンジージャンプを飛び降りるシーンというのは筆者にも見覚えがありますから。
 結果はどうなったかと言いますと、心拍数などの数値データもとって比較がなされたそうなのですが、見事にお坊さんの方が「落ち着いている」ということが証明されたそうです。筆者は番組を観たわけではないのですが、話を聞いているだけで興味がわいてきまして、せっかくの機会?ですから、どうやって平常心を保ったのかうかがってみました。すると「うまく軌道修正することが大事なんだと思いますよ」というお返事。軌道修正?何ですかそれは!バンジージャンプを飛んでから方向を変える工夫をしたんですか?!文字通り「軌道を修正する」という意味で受け取った筆者は驚いて声をあげてしまったのですが、ご住職からは「いえいえ、そうではなくて心のありようの問題ですよ」とのお答え。一体どういうことなのでしょうか。
 「高い所から飛び込むのですから、それは怖いですよ。」修行の成果で高い所も平気になって恐怖心も消え去った、ということではないそうです。恐怖も感じるし、緊張もするとのこと。では一般人と何が違うのでしょうか。筆者がその場に置かれたら、次から次へと頭の中で考えが巡って収拾がつかなくなると思います。「この高さから飛び込む。何もつけていなければ命を落とすことになる。でも丈夫なゴムがついているから大丈夫。でもそのゴムが外れたり切れたりしたら。下には岩場も見える。ぶつかったら命を落とす。でもちゃんと点検しているはずだから。でも点検を怠っていたら。やはり命を落とす。でも死にたくない。だったら飛ぶ必要はない…」ものすごい集中力を発揮しながら「でも、でも、でも」と際限なく思考が空回りを続けることでしょう。そうした思考回路にはまり込まずにうまく抜け出すことはできるのだ!と、ご住職はおっしゃるのです。そしてそれを「軌道修正」と表現されたのでした。
 恐怖や緊張から思考が一点に集中して凝り固まってしまう。そうした精神状態を解きほぐすためには、「集中」の反対である「分散」を使うのだそうです。決まりきった考え(この場合「落ちたら死ぬ」という考え)に集中してしまうと、何を見ても聞いても触っても、「やっぱり命を落とす」ということに結び付けてしまいます。そうではなくて、自分をとりまく環境から様々な情報を受け取った上で、ちゃんと分けて整理すること。自分の外にあるものからの影響をシャットアウトして内にこもって集中するのではなく、ちゃんと見えるもの、聞こえること、触ってわかることなど、それぞれきちんと確認をするのだそうです。
 「初めてバンジージャンプを飛ぶのですから、当然インストラクターの方がついてくれます。まずはその方の話をしっかりと聞くこと。そして周りの景色をよく見ること。命綱のゴムもちゃんと触って確認をすること。一つひとつ立ちどまるように、あえて気持ちを散らすのです。」筆者も納得しました。教え子に対して「集中しろ!」と声をかけることはあっても「気を散らせ!」と言ったことはありませんでしたが、皆さんもマイナス思考の無限ループにはまり込んでしまったら、気を散らして軌道修正を試みてくださいね、とアドバイスさせていただきます。ご住職ありがとうございました!

2018.03.04 理路整然
 「理路整然」

 「理路」とは考え方の筋道のこと。「整然」とは秩序正しく整っている様を表します。この二つの熟語が合わさって、文章や話について「前提から結論までの順序がしっかりと構成されていて、論理的に展開される様」を意味する四字熟語となったのですね。「理路整然と話をする」というのは、私にとって常に心がけていることでもあります。けれども、「それだけではいけない!」ということを、強烈に意識させられた思い出もあります。
 私が大学生の頃、東大の駒場には新進気鋭の政治学者のM先生がいらっしゃいました。ゼミも大人気でしたが、それよりも当時始まったばかりのテレビの討論番組にレギュラーで出演されることとなって話題になっていました。舌鋒鋭く世相を斬ってみせることで評判になり、回を重ねるごとに発言も強気になっていく。そんな様子をリアルタイムでみていたのでした。討論の司会者からも「Mさんは理路整然と話をしてくれるので」と信頼され、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。思い出というのは、今でも忘れることができないその討論番組のワンシーンのことなのです。討論のテーマは「戦後政治の総決算」的な内容だったと思います。中曽根長期政権が終了して政治情勢が不安定化し始めた時期でした。経済的にはバブルに向かう絶頂期だったのです。ではその討論のシーンを再現してみましょうか。太平洋戦争を経験した小説家でもある論者のNさんが、言葉を選びながらゆっくりと話をしていました。イメージを手繰り寄せるように、訥々と。話しながらも、いやそうじゃないな、こうでもないな、と行きつ戻りつしながら、懸命に考えている様子なのでした。その発言の最中、それをさえぎるようにM先生は理路整然と話し始めたのです。「あなたの言っていることは結局こうでしょ」と。取りも直さずと言わんばかりに、Nさんの話を勝手に代弁しはじめたのです。確かに、視聴者として聞いていた私は、「なるほど、そういうことか」と納得するような内容でした。ところが、当のNさんは「違う、そうじゃない!」と怒りをあらわにしたのです。発言を否定されたM先生が言い放った言葉が衝撃でした。「あなたが言えないから、私が代わりに正しく言ってあげているんでしょう!いい言葉で!」
 私が衝撃を受けたのは、この「いい言葉で!」という物言いです。まさしくその「いい言葉」を探し求めることを生業としている小説家に対して、なんという言い種なのか!傲慢にもほどがある、と。文学を志していた当時の私は、この法学部的な「いい言葉」という考え方に強く反発を覚えました。さすがに討論の司会者も「Mさん、あなたは理路整然と話をするが…」と、批判したのでした。それは人間性に問題がある、という意味ですよね。理路整然は大切ですが、それによって失ってはいけない要素もあるということは理解しなくてはならないと胸に刻んだのでした。何十年後かにM先生を都知事選で応援することになるとは夢にも思いませんでしたが。
2018.02.03 挙句の果て
 「挙句の果て」

  「挙句」は「あげく」と読みます。意味は「終わり。しまい。いきついた結果」。「挙句の果て」という言い回しで、「色々やってみた最終的な結果」というニュアンスを表します。「果て」というのも「結末」を意味し、重複させることによって最終的な結果であることを強調しているのですね。「思案した挙句に、変更を決定した」などのように、副詞的な使い方をすることもあります。
 さて、この「挙句」という言葉ですが、元々は何のことであったのかはご存知でしょうか?「句」とあるのですから、ピンとくる方もいらっしゃるでしょう。日本の伝統的な詩歌の形式である、「五・七・五」の長句と「七・七」の短句を思い浮べて下さいね。そして、この長句と短句を交互に連ねてゆくのが「連歌」と呼ばれる文芸のスタイルになります。最初にある人が五・七・五を詠みます。コレだけでも一つの文学作品です。その句を味わいつつも、次にある人が七・七を付け足します。出来上がったのは五・七・五・七・七ですね。短歌ですよ、立派な。この短歌を鑑賞しつつも、さらにある人が五・七・五を付け加えていくのです。そしてさらに次の人が七・七を…と、一体どこまで続けるのか?実に、百句になるまで長句・短句を交互に連ねていくというのが「百韻連歌」(ひゃくいんれんが)と呼ばれる形態なのです。
 複数の人たちが一つの場に寄り合って行うものなので、「座の文芸」と言われたりもします。その場で創作し、そして他人の歌を鑑賞しながら再び創作、これを繰り返しながら共同でひとつの詩を制作していくという、世界でも類を見ない文学のあり方です。連歌の魅力は、その場に参加している多数の人たちが次々と詠み継いでいく楽しさにあります。別人が詠み継いでいくことによって思いがけない発想や変化も生まれ、いわばゲーム感覚で連歌を楽しんでいた様子が伺えます。
 この連歌において、最初に詠まれる「五・七・五」が「発句」(ほっく)であり、そして最後に詠まれる「七・七」が「挙句」なのです。「いきついた結果」を表す言い回しとして、「挙句」という表現が採用されるというのは、きわめて文学的な用法なのであります。
 さて、この「発句」の部分が独立して、「世界一短い文学」と呼ばれるようになったのが、ご存知「俳句」ですね。俳句の成立に文字通り命をかけて取り組んだ人物こそが正岡子規、その人ですね。「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」という句はおなじみでしょう。子規の友人であった文豪夏目漱石の作品『三四郎』の中に、こんな記述がありますよ。「子規は果物が大変好きだった。かついくらでも食える男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。自分などは到底子規の真似は出来ない」なんてね。
 俳句を生み出した子規ですが、実はその過程で、連歌を否定しているのです。「文学に非(あら)ず」とまで。連歌は多数の人たちが一つの座につどい、一緒になって創作するという「共同の文学」でしたから、個人主義的で「個性」を絶対視する近代文学の理念と相容れなかったのですね。明治という近代日本に生きた子規の、一途に思いつめる考え方が伝わってくるエピソードだともいえます。

 
2017.12.07 順風満帆
 「順風満帆」

 「じゅんぷうまんぱん」と読みます。「順風」というのは「人や船が進む方向に吹く風」を意味しています。「追い風」のことですね。また「満帆」というのは「帆をいっぱいに張ること」を意味しています。ですから「順風満帆」というのは「追い風を帆いっぱいに受けて船が軽快に進んでいく様子」を表していることになります。そこから、「物事がすべて順調に進行すること」のたとえとして使われることになるわけですね。
 私はこの「順風満帆」という四字熟語を耳にすると、ついつい思い出してしまう歴史的事件があります。1274年の「文永の役」と1281年の「弘安の役」、鎌倉時代に二度にわたって日本を襲った国難、「元寇」です。当時世界最強の帝国であった「元」のフビライが、日本の鎌倉幕府の執権北条時宗に屈服を迫るのですが、時宗は断ってしまいます。結果、大軍勢を引き連れた元軍が、九州は博多湾に侵入してきます。その時の様子は、「蒙古襲来絵詞」に詳しく描かれています。この作品は歴史の教科書や資料集に登場する「最も有名な作品」と言われており、高校入試にも「最もよく出る」とささやかれていますよ。元軍の「てつはう」や「集団戦法」に苦しめられた、というのもご存知の内容ではないでしょうか。この二度にわたる「元寇」ですが、いずれも元軍にとっては運悪く、強烈な暴風雨に見舞われてしまい、退却を余儀なくされました。日本にとっては運良くやってきてくれた暴風雨ですよね。まるで日本を守るために、タイミングよく吹いてくれた強烈な風です。ここから「神風」という言葉も生まれました。
 「たまたま偶然が、重なっただけだよ」とそんな感想が聞こえてきそうですが、「いやいや、必ず神風は吹いたに違いない!」という意見の方もいらっしゃいます。私の中学校の先輩に、大手大学受験予備校の日本史の講師を担当された先生がいらっしゃいます。いわゆる「人気アンケート」で日本一に輝いた実績もお持ちの先輩なのですが、その先輩が教えてくれました。「元軍が何度やってこようとも、必ず暴風雨は吹いたでしょう」と。「それって神風でしょうか?」という筆者の問いに対して、先輩は次のように解説して下さいました。
 元軍はどうやって日本にやってくるのかを考えてみましょう。当然、船でやってくるわけですね。ペーリーの時代はまだ先の話ですから、蒸気船ではありません。では、人力で船をこいでいたのでしょうか?そうでもありません。帆船なのです。帆を張って風の力で船を進めていたのですね。「待てば海路の日和あり」というように、海が荒れていれば出航もできませんが、進行方向に向かって「いい風」が吹いていなければまた、遠くへの船出は難しかったのです。ですから、九州方面に向かって「すごくいい風」が吹くタイミングでなければ、「元寇」は行えない。この九州方面に向かって継続的に吹く強い風、というのがポイントで、これは端的に「台風」のことを指しているのだ、というオチ(笑)です。元軍は常に台風の進路にのって日本にやってきた、ということになります。だから「何度日本にやってきても、必ず神風=台風は吹くのです」と。
 「順風満帆」=帆にいっぱいの風を受けて進む元軍。先輩のおかげで、このイメージが筆者の頭には焼きついてしまいました。「追い風だと思い込む前に、冷静に状況分析」というのが、オトナにとって必要な態度だと思うようになりましたね。「順風」には気をつけましょう(笑)。


 
2017.11.04 八方美人
 「八方美人」

 「誰からも悪く思われないように、要領よく人とつきあっていく人」を指して使われる表現です。「悪く思われないよう」「要領よく」といった言い方からも推測できるように、ほめ言葉として使われることはありません。「あの人は八方美人だから」と言った場合には、「本心では何を考えているのか分からない、信用できない人物だ」といった意味合いが込められています。
 私にはこの四字熟語にまつわる大学時代の思い出があります。東京大学には入学時に決まる「クラス」があります。一・二年生の間は「教養課程」といって、専門に関係なく幅広く学識を深めるというシステムが採用されていることから、クラス単位で同じ語学の授業を受講したりするのです。ですから、ホームルームこそありませんが、同じクラスのメンバーで一緒に行動することが多く、大学を卒業してからも「同級生」として仲がいいのです。ちなみに私は文Ⅲ8組。フランス語を第二外国語として選択したクラスでした。
 そのクラスに、いわゆる「マドンナ」がいました。80年代の美人を形容するのに「きりりと太い眉」というフレーズがありますが、まさにそれ(笑)。十代や二十代の皆さんには理解できない表現だと思いますので、お父さん・お母さんに聞いてみてくださいね。クラスの男子の憧れの存在である彼女の名前は、Kさんといいまして、現在はNHKのアナウンサーとして活躍されています。
 ある時、同級生の一人(M君といいます)が私に向かってこう言ったのでした。「Kさんって八方美人だよな」。それに対して私は「確かに人当たりは良いけど、八方美人というのは違うんじゃない?」とこたえたのですが、さらにM君は「いや、どこからどう見ても八方美人に違いない!」と言ってゆずらないのでした。「そうかな?そんなに計算ずくで人に接しているようには見えないけど…」と私が告げたときのM君のキョトンとした顔が今でも忘れられません。
 皆さんはもうお分かりですよね。そう、M君は八方美人を文字通り「四方八方どこから眺めても完璧な美人」(M君の発言)という意味で使っていたのです。確かに元々の意味は「どの方向からみても難のない美人」ですので、「言葉の本来の意味でKさんは八方美人だね」という言い方をすれば、問題はないのですが…。東大生といっても様々です。数学は得意だけれど国語は苦手という学生も一定の割合で存在するのです(笑)。
 ちなみにM君も現在は渋谷の都市計画に関わる重要なポストに就いて活躍しています!


 
 「こんなこともあろうかと」

 私にとってお気に入りの「きめ台詞」でもあります。セリフといっても実際に「こんなこともあろうかと!」と、口に出して言うことはないですし、表向きは涼しい顔をしているのですが、心の中では「してやったり!」と、ガッツポーズをつくっているという具合です。ではなぜ「セリフ」と表現したのかと言いますと、子どもの頃に夢中になったテレビのアニメや特撮ヒーロー物の劇中で、登場人物が発する言い回しとして記憶されているからです。巨大な敵に戦いを挑む主人公といったオハナシですから、私が幼稚園児の頃にまでさかのぼると思います。ヒーローが勝って悪役がたおされる、という分かりやすいストーリーですよ。でも、敵もいつも負けてばかりではありません。ヒーローが苦戦して、今回は打ち負かされてしまいそう…テレビを観ている子どもがやきもきするような放送回がたまにはあるのです。そんな場面で活躍するのが、主人公ではないサブキャラクターです。いつものようにはうまくいかない!という非常事態において、普段は表に出てこない、おそらくは地味な活動をしているであろう研究者が、あわてふためく周囲をよそに、冷静に対処してみせるのです。「博士」と呼ばれたりもして、科学者という設定なのでしょう。その科学者の博士が発するのが「こんなこともあろうかと、密かに開発しておきました」というセリフなんですよ!幼い私はこの「ハカセ」にしびれましたね。オトナの視点からすれば、ドラマの展開に合わせて都合よく「秘密兵器」が登場するなんて「ご都合主義だ!」という批判もありえますが、私にとっては毎回活躍する主人公よりも、困ったときにだけ登場する科学者が、憧れの対象となりました。その影響で「ハカセ」を目指して、高校一年生までは京都大学の工学部に進学してロボット工学を研究するつもりでいましたからね(笑)。結局、高校二年生で「文学」に目覚めて、東大の文学部を目指すようになったのですが。
 さて、リアルに「こんなこともあろうかと」と、日本の科学者が「秘密機器」を準備しておいて、世界中を驚かせたのが、小惑星探査機「はやぶさ」の偉業になります。地球から三億キロメートルも離れたところにある直径五百メートルの小惑星に行って、石や砂を持ってかえってくるという、とてつもないミッションでしたね。ある人に言わせるとそれは「1.5km離れた複合ショッピングモールに五歳児をおつかいに出し、モールのどこかにある小麦粉一粒拾って戻ってこい、というレベルだ」とのことです?意味は不明ですが、その困難さのたとえとしては理解できます。実際に「はやぶさ」のミッションは困難の連続でした。その中でも最大のものは、地球への帰還を目前に、想定よりも三年長い航海を支えてきたイオンエンジンが限界に達し、四台すべてのエンジンが停止してしまった時でした。はやぶさが動かなくなってしまい誰もがあきらめかけたとき、宇宙工学者の國中先生は、「こんなこともあろうかと」密かに仕込んでいた回路を使い、各エンジンの中でかろうじて生き残っていた部品どうしを組み合わせて、一つのエンジンとして動かす「クロス運転」を実現したのです!まさにミッション最大のピンチを救う、科学者の面目躍如といったシーンでしたが、決してドラマの「ご都合」で仕込んでいたわけではないのです。科学者として最悪の事態を想定していたからこそ、「こんなこともあろうかと」対処できたのです。
 ロボット工学者の夢は叶わなかった私ですが、それでも「こんなこともあろうかと」常に準備していることがあります。仕事柄、スピーチを依頼されることも多いのですが、最近は「教え子」の結婚式であったり、何らかの授賞式であったりに招かれることも増えてきました。教師冥利につきる嬉しい場面です。こうしたスピーチの依頼というのは、当然、式典に先立ってあらかじめ「お願い」として届くものなのですが、出席の依頼だけでスピーチは特に求められないケースというのもあります。けれども私は、まさかのときのために必ずスピーチを準備していきます。発言の機会がなく式典が終了してしまうことがほとんどなのですが、本当に何十回かに一回、突然「ご指名」がかかりスピーチを求められることがあります。そんなときに、「いやいや、何を話していいのか分かりませんよ」と言わないですむように準備しているのです。周りの人には、ハプニングに対して機転で切り抜けたかのように見えるかもしれませんが、実際には「こんなこともあろうかと」事前に原稿を作って、声に出して読む練習を繰り返してきたことなのです。