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 「超スマート社会」

 「Society(ソサエティ)5.0」という言葉を最近よく耳にすることがありませんか?「なんとなく、新しい時代がやってくる」といったニュアンスで受けとめているのではないでしょうか。では、わざわざ小数点をつけて表されている「5.0」とはなんでしょうか?ソフトウェアの更新などに使われる言葉に「バージョンアップ」(機能やサービス内容の更新)がありますが、その更新される範囲や規模などの違いによって呼び方が異なることがあります。ソフトウェア全体を大きく更新するのが「メジャーバージョンアップ」。その場合には「Ver.1.0」から「Ver.2.0」へと変更されます。そして部分的な修正による更新を行うのが「マイナーバージョンアップ」。その場合には「Ver.1.0」から「Ver.1.1」へと、小数点以下だけを変えて表現されることが多いのです。
 ですから「Society5.0」というのは「大きく更新された5番目の社会」ということになります。それはどういう意味でしょうか?人類がこれまで歩んできた「社会」を、順に「狩猟社会」「農耕社会」「工業社会」「情報社会」ととらえます。現在は「情報社会」という4番目の社会「Society4.0」にあたります。そして、これに次ぐ第5の新たな社会の姿が「Society5.0」と呼ばれるイメージになるのです。日本政府による定義では「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会(Society)」となります。「ちょっとなに言ってるのか分からない!」というツッコミが入ってもいいのではないでしょうか(笑)。これまでの社会を表す言葉のように「狩猟」「農耕」「工業」「情報」と熟語を使って表現できれば定着していくのでしょうが、まだ「○○社会」のように「Society5.0」を表現することはできないでいます。熟語ではありませんが「超スマート社会」というのがその内容になります。ここで「頭の体操」です!「超スマート」という意味を表す熟語を考えてみるのです。様々な漢字を組み合わせて、ぴったりの表現を探してみましょう。「電脳社会」なんていうSF的な表現も、当たり前になるのかもしれませんよ。ちなみに中国語では「電脳」といえばコンピューターのことですので、違和感はあまりないのかもしれません。
 これまでの情報社会では、あふれる情報の中から自分達に必要な情報を見つけて分析、判断する作業が必要でした。これからの超スマート社会では通信技術の発達と膨大なデータを蓄積して処理する技術によって、全ての人とモノがつながり、様々な知識と情報が共有され新たな価値が生み出される時代になるというのです。今でも、われわれはインターネットを通じてあらゆる情報にアクセスしているように思います。でもそれが情報社会の限界なのです。現実空間にいる私たちからサイバー空間にある情報にアクセスをしているという状況、この状況自体が更新されるのです。超スマート社会では、サイバー空間にIoTを通じて蓄積されたデータがAIを利用して分析され、逆に、現実空間へ新たな価値として提供されてくるということになるわけです。こうした、現実空間とサイバー空間の間でデータが循環する社会を、「データ駆動型社会」とも表現します。
 「Society5.0」において経験する変化は、これまでの延長線上にない劇的なものになります。ではそうした新しい令和の時代を生きる子どもたちにとって、必要な教育とはどのようなものになるのでしょうか?インターネットを使った調べ学習、というのがこれまでの情報社会でのスタイルでしたが、これにとどまらず、学習のあり方そのものが大きく変わっていくでしょう。超スマート社会では、教育用 AI が発達し普及していくことにより、AI が生徒個人のスタディ・ログ(学習履歴)や健康状況等の情報を把握・分析し、一人ひとりに対応した学習計画や学習コンテンツを提示することが可能になるというのです。「いつでも、どこでも、簡単に」最適化された情報がやりとりされるようになれば、学習機会の考え方自体が変化します。生徒全員が同じ授業を同じ教室で受けるということの必然性がなくなっていくのかもしれません。けれども、人と機械が複雑かつ高度に関係し合う社会となっていく中で、あえてAI によっては代替できない「人間ならではの営みとは何であるのか」を問い直すことは、どうしても必要になると思います。その答えを、一人ひとりが自分のこととして受けとめて、考えなければならない社会が到来するともいえますね
2019.07.31 目からうろこ
 「目からうろこ」

 「目からうろこという実感がなければ、情報として伝わることはありませんよ!」と、情熱的に語ってくださったのは、東京大学高齢社会総合研究機構の飯島勝矢教授です。高齢者医療の最前線で活躍しながら、政府の諮問機関にも専門委員として参画して活発な提言をなさっている先生です。直接お話をうかがう機会があったので、いくつか質問もさせていただきました。寝たきりの高齢者にならないようにするためには予防が大切である!というテーマでしたから、私の教え子たち(小・中学生)にとっては、まったくといっていいほど関係のないお話になります(笑)。私も「これは小・中学生にとっても大切な内容だから、しっかりと質問して教え子たちに伝えよう」とは、少しも考えていませんでした。実際、お話の中では「筋肉量の低下にともない身体能力は落ちていってしまうので、筋肉量を維持するためにタンパク質を摂取することが極めて重要である」ということが強調されていたのですから。小・中学生にタンパク質の重要性をわざわざ伝えようとは思いませんよね。ところが、お話をうかがっているうちに「これは教え子にも伝えなければ!」と気づかされたポイントがあったのです。それが冒頭で紹介した「目からうろこ」という情報の力になります。
 「目からうろこ」というのは「目からうろこが落ちる」という言い回しを略して使っているものです。もともとはキリスト教の新約聖書の中の言葉になります。「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった」(『新約聖書』 使徒言行録9章18・19節)。うろこで目をふさがれた状態でよく見えなかったものが、急にそのうろこが落ちて鮮明に見えるようになったということから、本来は宗教的な意味で「誤りを悟って迷いから目覚める」という内容だったのですね。今では「あることをきっかけに、わからなかったことが急に理解できるようになることのたとえ」として使われるようになっています。今回紹介している「目からうろこ」体験というのも、「お話をきっかけに、なるほどそういうことか!と理解することができた」という意味で使っています。
 さて、タンパク質の摂取が重要だというお話でした。先生はおっしゃいます。「健康のために必要なことなんて皆さんわかっていますよ。適度な運動、規則正しくバランスのとれた食事、質のよい十分な睡眠。情報がたくさんあふれている時代ですから、だいたいのことは皆さん知っている。タンパク質をとりましょうという話だって『初めて聞きました。そんなに健康に重要なことだったのですか』なんて驚く人はいませんよ。」高齢者の方々を対象にした健康セミナーでお話をしている場面を想像してみてください。健康な体を維持するためには一日にタンパク質を60g摂取しなくてはなりませんよ、と説明したとしても「大丈夫ですよ先生、お肉だってお魚だって食べていますから」と、聞き流されるのがオチだというのです。だからこそ、伝え方に工夫を凝らさなければならないのです。「では一日にお肉をどれくらい食べていますか?」という質問をして「お肉ばかりではないですが、豆腐や納豆だってタンパク質でしょ?100gくらいは合わせて食べていますよ!」と自分たちが食べている量に関心を向けさせます。「では200gのステーキをペロリと食べられますか?」と、あえて挑発的な?質問をして「毎日は無理でも、まだまだそれくらいは食べられますよ!」との発言を引き出して、これで文句はないでしょうと思わせるのです。そして最後に「では200gのステーキに含まれるタンパク質の量は何gだと思いますか?」と畳みかけるように質問をして「えっ?」と考えさせるのです。お肉を200g食べればタンパク質も200gとったことになると単純に考えていた人はあわてます。お肉はタンパク質のかたまりだと思っていましたからね。そこで遠慮がちに「100gくらいでしょうか?」と半分ほどに下げて答えてみて様子をうかがう人が多いのだそうですが、正解を聞いて衝撃を受けます。「200gのステーキには35gのタンパク質しか含まれていませんよ。」「なんですって!では60gのタンパク質をとろうとすればステーキを何g食べなくちゃいけないんですか!そんなには無理ですよ!」とようやく「自分のこと」として受けとめることになるというのです。「目からうろこ」の知識であってこそ、行動に影響をあたえることができるのです。
 「健康になるための情報」を伝えたとしても、それを「自分のこと」として受けとめて、行動や生活を変えようと思えるまでにはなかなかいたりません。そうした相手の心にまで届くのが「目からうろこ」と感じさせる情報の力だというのです。このことを「学力をアップさせるための情報」に置きかえれば、小・中学生にとっても切実な話題ではないでしょうか。「全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)」の分析結果が文部科学省から公表されました。学力が高い生徒がどのような生活習慣にあるのかが明らかになっているのです。「朝食をしっかりと食べる」「本や新聞などに親しむ」そんな生徒は学力が高い傾向にありますよ!と、耳にたこができるほど聞かされた内容でしょう。それを「自分のこと」として受けとめるためには、やはり伝える側の工夫も必要だということですね。「朝食をしっかり食べる」の「しっかり」とは具体的にどういったことなのか?という問いかけが不可欠です。時間をかければいいのか、量を増やせばいいのか、品目を増やせばいいのか、家族との会話が必要なのか、一歩ふみ込まなければ朝食のイメージが共有されませんよね。「本や新聞などに親しむ」というのも「親しむ」とはどのレベルなのか?具体的な数字に落とし込まなくてはなりませんよね。せっかくの国家プロジェクトなのですから、分析の結果を生徒に伝える際の工夫にこそ意を注ぐべきであるということを、教育委員会に対しても求めていこうと思います!
2019.06.30 潜在能力
 「潜在能力」

 「ポテンシャルが高い」という言い方がありますよね。人物評として使われる場合には「まだ表面化していないが、潜在的な力がある」という意味で、期待を込めた表現になったりします。けれども「ポテンシャルは高いのに…」という言い回しの場合には、評価が反転することになります。「期待通りのパフォーマンスを発揮できていない」という意味になってしまいますから。「やればできる」という言い方も同様ですね。「やればできる!(だから頑張って結果を出そう)」と「やればできるのに…(でもやらないから結果が出ない)」では方向性が180度違います。それでも「やれば」という仮定の話だという点は共通しているのです。いずれにせよ結果は出ていないのですからね。ポテンシャルという言葉を日本語に直せば「潜在能力」になるでしょう。隠された力がある、というニュアンスです。「伸びしろ」という言い方も最近よく耳にしますよね。「経験をつめばまだまだ伸びそうだ」という意味合いで使われます。
 さて、「潜在」という熟語の反対語はご存知でしょうか?「顕在」になります。漢字の違いは「潜」と「顕」ですね。それぞれ訓読みしてみましょう。「潜」は「ひそ(む)」「もぐ(る)」となります。「ひっそりとかくれている」という意味ですね。「顕」は「あき(らか)」「あらわ(す)」で、「はっきりとわかるようにする」という意味です。「顕在能力」という言葉は聞いたことがありませんよね。なぜでしょう?サッカーが上手だ、という例で考えてみましょう。「ハンパない」と誰もが認める能力の高さというのは、目に見えて明らかです。「後ろ向きでボールをトラップするなんてすごいね!まねできないよ!」とはっきりとわかります。ですから「顕在」と、わざわざ言うまでもないことなのですよね。それに対して「潜在能力」というのは、隠れていて誰にも分からないというものです。そもそも本人でさえ気づいていない能力なのですから。ある人物の中でいわば「眠っている能力」という意味ですよね。さて、この潜在能力を引き出すということ。これこそが先生が生徒に対して働きかける最も重要なミッションではないでしょうか!それにはどのようなアプローチが必要なのでしょう。
 「子どもはほめて育てるものだ」という考えが、広く世間に受け入れられています。そのせいか、結果も伴わないのにとにかくほめなければいけない、やりもしないのに「やればできる」とほめなければいけない、と何だか強迫観念のように「ほめ続けなくてはならない」という風潮があります。ポテンシャルにせよ、潜在能力にせよ、伸びしろにせよ、とにかくほめる方向で使わなくてはならないと。そうでなければ子どもの自己肯定感が育たない、というのですが…。本当にそうでしょうか。
 私も何度か「自己肯定感は重要である」という話をしたことがあります。教え子の東大合格生が、共通して身につけているのが「自己肯定感」だったという話です。けれどもそれは、ほめられた結果身についたものではないと思うのです。自己肯定感は周りが与えるようなものではないからです。壁にぶつかって悩み、もがき苦しみながらも頑張りぬいて、乗り越えることによってはじめて培われていくものなのです。「やればできる」と言われて育った子どもは、自尊心は高くなるのでしょうが、学力は落ちるものだと、長年の経験で確信しています。ほめるのにはタイミングがあるのです。結果についてほめるべきなのです。「やればできる」ではなくて「やったらできた」のタイミングでほめてこそ、学力が伸びるのです。
 潜在能力を引き出すと言いましたが、文字通りの意味では先生が生徒の能力を「引き出し」たりはできないと思います。生徒自身が「自分にこんなことができるなんて!」と発見することこそが、潜在能力の意味ですから。「やったらできた!」と、感動を覚えることが重要なのです。そしてそのタイミングで「すごいな!」と、共感することが先生の最大のミッションなのです。
 「やれば」という仮定の話ではなくて、「やった」という事実。そのチャレンジこそが、潜在能力の発見をもたらします。先生の役割は「やってみろ」と促すことと、「やったらできた!」のタイミングで認めること。ここにあるんだと思いますよ。
2019.05.27 地域包括
 「地域包括」

 「先生!お知恵を拝借したいのですが…」高校生になった教え子君から相談を受けました。国語の授業で「四字熟語」を挙げて説明しなさい、という課題が出たというのです。「お知恵を拝借」なんてセリフをどこで覚えたのか、そっちの方に興味をひかれましたよ。もちろん簡単に請け負う私ではありません。「四字熟語の意味くらい自分で調べなさい!辞書は引いたのか!」と教育的指導です。ところが、そう言われるだろうとは覚悟の上でお願いに来たというのです。「自分たちが住んでいる地域の課題を説明する言葉として、四字熟語を選んで説明しなくてはならないのです。」なるほどそういうことか。地域の課題なんて私をくすぐるテーマですね。それを承知で相談に来たというのなら話は別、「地域包括」という四字熟語を教えてあげるから、自分で意味を調べて報告すればいいよ、とアドバイスをしました。
 「包括」という熟語は「全体をひっくるめてまとめる」という意味です。「地域包括」は「地域のことを地域全体で取り組む」という意味になるのです。ですから、高齢になっても住み慣れた地域で安心して暮らせるよう、地域におけるケア体制の充実を図り、保健・医療・福祉の連携により、適切なサービスを切れ目なく提供し、高齢者を包括的・継続的に支援することを「地域包括ケア」と呼ぶのです。地域の持つ生活支援機能を高めるという意味において「21 世紀型のコミュニティの再生」と言えるのですよ!どうです、テーマにぴったりの四字熟語じゃないですか。
 「先生違います。指定された四字熟語を使って説明するのです。地域包括はその中に入っていません。」なんですと?決まった四字熟語なら自分で辞書を引いて調べなさい!と再び教育的指導を繰り返したのでした。
 「あいた口がふさがらない」

 あまりにもあきれると、ぽかんと口を開いた状態のまま一言も言葉を発しなくなることから、「相手の行動・態度に、あきれかえってものが言えない様子」を表す慣用表現になりますね。ところが先日、こんな用例に出くわして驚いた次第です。「イチロー選手のレーザービームのような送球は開いた口がふさがらないほど素晴らしかった」というものです。これが教え子の作文だというのなら「キミキミ!間違っているよ。イチロー選手の活躍にあきれているワケではないでしょ?」と注意すればすむのですが…大手新聞社の記事なのですよ、コレが。気になったので調べてみたのですが、確かに次のような説明もありました。「どちらかというと、悪いことを嫌ったりする場合に使われるようですが、いい意味でも使われるようです」と。それでもやはり一般的には、「あきれかえってものも言えない」というニュアンスですから、ほめ言葉にはしない方が無難だと思いますよ。
 実はこの「イチロー選手」の話、もとは英文だったのですよ。日本語訳として掲載されていたのが先ほどの文なのです。先日惜しまれつつ引退を表明した日本人大リーガー「鈴木一郎選手」を紹介した記事にこんな箇所があったのです。
 Ichiro Suzuki’s laser-beam-like throwing was jaw-dropping. 
 このjaw-droppingという英語の慣用表現を「あいた口がふさがらない」という日本語の慣用表現に翻訳していたのですね。英語のjawは「あご」という意味です。平和なビーチを襲う巨大人食いザメ(ホオジロザメ)の恐怖と、それに立ち向かう人々を描いた映画に『Jaws(ジョーズ)』がありましたね。スティーヴン・スピルバーグ監督作品です。大きな「上あご」と「下あご」を合わせて噛み付くワケですからJawsと複数形になるのですね。その「あご」がdropping「落ちてしまうような」、驚きを表す慣用表現となります。落ちるのは「上あご」ではなく「下あご」だけでしょうから、ここでは単数形となっているのですね。
 英語のニュアンスをそのまま伝えるのであれば、あえて日本語の慣用表現を使わずとも「イチロー選手のレーザービームのような送球には下あごが落ちるほど驚かされた」でもいいと思いますよね。十分にその驚嘆ぶりが伝わってきますから(笑)。


2019.01.22 エピソード
 「エピソード」

 教え子君から緊急の相談を受けました。「中学生になって成長したこと」というテーマで一分間スピーチを行うことになった、というのです。なんでもLHRの時間を利用して、クラス全員が話をするのだとか。それもスピーチを聴いているときには、発表者がどんなことを伝えたかったのかをまとめておかなくてはならないそうで。話すことも大変ですが、クラス全員分のスピーチを記録することも大変です。話し方・聞き方を身につけるにはいい機会になると思い、教え子君と一緒に考えました。学習指導要領的には、このような取り組みを通して、段取り力、情報収集、情報編集、情報発信力を育もう、という意図なのでしょうが、あまり欲張りすぎると「一分間」という短い時間のしばりが厳しくて「虻蜂とらず」ということにもなりかねません。心がけるべき点は一つにしぼることをアドバイスしました。そのポイントというのが今回取り上げた「エピソード」なのです。話す際にも、聞く際にも、エピソードを中心にすえることです。
 「エピソード」(episode)を辞書で調べると、主に二つの意味があることがわかります。一つ目は「本筋とは関係のない、短くて興味深い話」という意味、二つ目は「ある人物についての、あまり知られていない興味深い話」という意味です。一つ目は「挿話(そうわ)」という熟語で表現されます。小説や劇などで本筋の間にはさむ、本筋とは直接関係のない、短くて興味ある話ですね。二つ目は「逸話(いつわ)」という熟語で表現されます。ある人について、あまり知られていない興味ある話ですね。
 一分間スピーチには「中学生になって成長したこと」というテーマが設定されていますので、「挿話」を展開してこのテーマとは関係ない面白い話をしたとしても、一分間はそれだけで終わってしまいます。「それって成長と関係あるの?」という指摘を受けてしまうでしょうから、ここでは「逸話」を展開することになりますよね。自分が成長したということについて、みんなが知らない一面を話すということです。ところがそんなテーマにこだわってしまうと、肝心のエピソードが出てこない!という心配がこみあげてきませんか。「何かとてつもなく面白い、これは成長したな!と実感できるような、みんなが知らないエピソード」はないだろうか?と考え始めると、変なプレッシャーを感じてしまい、かえって記憶が呼び起こされないのです。そんなときにはテーマとの関わりをいったん忘れて、自分の記憶に残った出来事を思い起こすことを心がけましょう。むしろ「それって成長と言えるの?」という指摘を受けるくらいの「関係なさ」が面白いのだ!と心得ましょう。何も気にせずに、中学校生活で心に残ったことを、気の向くままに思い出すこと。これが重要なのです。リラックスしてそのときの気持ちを再現しましょう。心に残ったことには必ず感情がともなっているはずですから。
 記憶のメカニズムを研究する心理学には「エピソード記憶」という言葉があります。「個人が経験した出来事に関する記憶」のことで、例えば、昨日の夕食をどこで誰と何を食べたかというような記憶に相当します。特に覚えておこうと意識しなくても、自然に覚えているのがこの記憶の特徴になります。逆に「覚えようと意識して覚える知識」もありますよね。体験ではなく学習によって得られる記憶のことです。これは「意味記憶」と呼ばれます。繰り返し学習することによって身につける知識の記憶ですね。「記憶力がほしい!」というときの記憶力とは、テスト勉強で教科書の内容を完璧に暗記するといったこの意味記憶ですよね。何度も繰り返し頭に叩き込む必要があるのが特徴です。
 それに対してエピソード記憶は「一回限り」の学習機構であると考えられています。たった一度の経験を覚えているわけですから、考えてみればすごい能力ですよね。ちなみに田中が小・中学校時代の同級生と再会して昔話に花を咲かせたときには、必ず「そんなことをよく覚えているな!」と感心されます。「何か予習でもしてきたのか?」とからかわれるくらいです。もちろん予習しようにも教材があるわけではありませんからね。自分でも驚くほど当時の記憶がよみがえるのです。けれども私は決して抜群の記憶力を小・中学校時代に誇っていたわけではありません。漢字や英単語を覚えることにさえ四苦八苦していましたからね。意味記憶に関しては人並みがいいところでした。それでも東大に合格できたのは、このエピソード記憶に秘密があるのではないかと思っています。
 エピソード記憶は、何を経験したのかという内容だけではなく、その出来事を経験したときのさまざまな付随情報(周囲の環境や自己の身体的・心理的状態など)と共に記憶されていることに特徴があります。私が思い出す小・中学校時代のエピソードも、そのときの教室の様子や同級生の表情が、自分の感情とともによみがえってくるのです。ですから私にとっては「記憶とは感情がともなうもの」という認識があります。逆に「感情がともなわなければ記憶に定着しない」とも言えると思っています。
 一分間スピーチの肝は、この「感情」だと考えました。どんな感情に結びついたエピソードを語るのかがポイントだと。また話を聞く際も、話し手がどんな感情にもとづいて語っているのかを理解することが必要です。「成長したこと」という内容を考えるよりも、その際に自分が感じた「喜び」や「怒り」や「哀しみ」や「楽しみ」といった感情を伝えようとすることが重要になるのです。喜怒哀楽をどのように伝えるか、ということですね。

2018.12.25 卑近な例
 「卑近な例」

 「ひきん」と読みます。「卑(ひ)」という言葉が、「卑(いや)しい」と読むことからも分かるように、「低い評価」を表しますので、「身近でありふれていること」=「価値がなくつまらない」という意味になります。
 「卑近な例」という言い回しは、確かに「身近でありふれた例を挙げるとすれば」という、「つまらない例」という意味にもなりますが、「身近でありふれた」=「具体的で分かりやすい」という面を強調すれば、誰もが納得する例の挙げ方、ということになりますからね。
 このことを理解するために「卑近」の反対語にあたる熟語を考えてみるとよいでしょう。答えは「高遠」になります。「高い」も「遠い」も小学校低学年で学習する漢字ですが、これを組み合わせた熟語というのは小学生には難しいレベルです。「高遠」はそのまま「こうえん」と読みますが、意味は「高尚で遠大」ということで、高次の思考の結果として、より純粋化され、抽象化され、観念化されていることを表す言葉になります。この「高遠」との対比で「卑近」をとらえてみると、「卑近な例」の意味合いが理解できると思います。
 「経済の好循環を実現し、持続可能な社会保障制度を確立します」といった「高遠な理想」を掲げたスローガンは、あまりに抽象的で心に響いてこないということは、選挙の際に皆さんも耳にして実感したのではないでしょうか(笑)。では、スローガンに「卑近な例」を入れ込んで成功したケースというのは、あるのでしょうか?日本の現代史を勉強している皆さんなら、聞いたことのあるフレーズになると思います。そう、教科書に載るほど有名になった「卑近な例」というものがあるのですよ。「お父さんの給料が2倍になります!2倍ですよ、2倍!」で成功した池田隼人首相の「所得倍増計画」や「トンネルを掘って線路でつなげば、新幹線は通る!」で日本の発展を約束した田中角栄首相の「日本列島改造論」などです。昭和の時代の具体的で分かりやすくインパクトのあるスローガンの好例でしょう。
 さて、平成不況からの出口を探る日本経済ですが、アベノミクスが賛否両論ありながらも、ある程度の期待を抱かせているのは、「日経平均株価が2倍になりましたよ!2倍ですよ、2倍!」という具体的な効果だと思います。さて次にどんな「卑近な例」が挙げられてくるのか。ぜひ、皆さんも注目してみてくださいね。「それでは高遠な理想に過ぎないね」なんて言われてしまうかもしれませんが。
2018.11.11 過去問
 「過去問」

 「カコモン」という言葉は、受験生でなくても耳にしたことがあるのではないでしょうか。「過去に出題された試験問題」を略して「過去問」と呼んでいるのですが、受験業界ではもちろん入試問題のことを指しています。
 さて受験勉強で過去問に取り組む意義というのは何でしょうか?「過去に出題された」わけですから、これと同じ問題が次年度の入試に出題されることはない、と考えられます。だとするならば、入試には出ない問題を解く意味があるのか?という疑問が浮かび上がりますよね。でも、もちろん重要な意義があります。「入試対策は過去問が全て」と言っても過言ではありませんからね。
 一つには「出題の形式を理解するため」です。入学試験は限られた時間に最大限のパフォーマンスを発揮しなければなりませんから。試験時間が何分であるのか、どんな形式の問題が出題されるのか、それを知らないで受験するというのは、何メートル走るのかを知らないでトラック競技に出場するようなものです。100メートル走なのか1500メートル走なのかを知らないで出番を迎える選手はいないでしょう。スタートしてどこかでスパートをかけようと思っているうちに100メートルが終わってしまう。逆に最初から全力疾走に挑んで1500メートルを走りきらずに力尽きてしまう。そんなバカなことが、と思うかもしれませんが、現実に「試験時間が60分だと思っていました。実際は50分なのに…」ということがおきています。同じ学校でも国語と数学で試験時間が違うといったことがあるからです。正確な試験時間に基づいて、それぞれの問題にどれくらいの時間をかけるのかを考えておかなくてはなりません。選択肢の問題が多いのか、記述問題が多いのか、設問数は全部でどれくらいなのか。出題形式を考慮して時間配分を考えるのです。50分なら50分という試験時間の間に、何をどれくらいのペースで解くのがよいのか、自分にとってのベストの配分を見つけ出すことが重要です。最大限のパフォーマンスということの意味はこれなのです。
 もう一つは「出題の内容を理解するため」です。出題傾向を見極めるのです。学校によって出題される分野に偏りがみられることがあります。どうして偏りが出てしまうのか?出題者の気持ちになって考えなくてはなりません。入試問題は学校から受験生に向けてストレートに発信されています。この問題が解ける生徒は、うちの学校に入学してほしい!という非常に強いメッセージがこめられていることを理解してください。この分野に強い受験生、このジャンルに興味のある受験生に、ぜひ入学してほしい!という出題者の心の叫びが聞こえてくれば一人前ですね。ただし、これを受験生に求めるのは酷というものでしょう。では、どうするのか。そのためにこそ入試問題分析を専門とする塾講師の存在意義があるのです。一人前というのは、塾講師として、という意味ですからね。毎年毎年、入試問題を解き続けているわれわれです。行き着く先は「入試問題予想」になります。過去問をふまえて、次年度の入試問題を当てにいく。ズバリ的中を目指しているのです。
 私が塾業界にのめり込んだ原因の一つが、この入試問題予想になります。「出題傾向どおりならば、絶対にこの作者のこの文章が出題されるはずだ!」と思いつき、いてもたってもいられなくなり、受験前の最終授業でその箇所を取り上げて解説をおこない、本当にそのまま入試で出題されたことがあります。長年塾講師を務めていますので何度も的中を経験しているのですが、最初に「ズバリ的中」させた体験は強烈で、その後の私の人生にも大きな影響を与えました。当時はまだ大学の研究室にも籍を置いていた田中です。プロフィールに「人文科学研究科」とありますよね。それがその名残です(笑)。
 何を研究していたのかといいますと、人類の歴史や社会の成り立ちについてです。かつての人類が「どんな生活をしていたのか」「どんな体験をしたのか」を考えていました。過去問と同じように、全く同じ状況が今の社会におこることはないのですが、歴史をふまえて考察することで、今の問題への向き合い方が変わってくるのです。「人間とは何で、どうあるべきか」ということについて答えようとすること。これが人文科学の存在意義です。人間そのものが、ものすごいスピードで変化し続けています。これからの人間観を模索しなくてはなりません。そのためにも人類の歴史=過去問への取り組みは重要なのですよ。どうですか?過去問の意味合いは深いでしょ!
2018.10.12 不問に付す
 「不問に付す」

 使われている漢字から考えて文字通りの解釈をすると「問題にしないでおく」という意味になりますよね。ではどんな時に使うのでしょうか?問題視されてもよいことがらに対して、あえて「とりたてて問題にはしない」という判断を下す際に使われます。ですから「過失などをとがめないでおく」という意味合いにもなり、さらには「見逃す」というニュアンスまで含まれます。ミスをした者に対してそれを判定する立場にある者が、「今回は許してやるが、次はないぞ!」という、警告とともに反省への期待をこめて「問題にはしない」という態度をとるときに使うこともあります。生徒を指導する立場にある先生にとっては、この「不問に付す」ということが普段の学校生活においても、生徒に対してとるべき態度としておこりうるのです。その際に先生から「今回のミスは不問に付すことにする」などといった発言が、生徒に対して直接あるわけではありませんが、先生として生徒への指導上、黙って見逃すということはありうるのです。しかも、この不問に付すことができるというのが、先生にとって重要な手腕の一つとしてカウントできると私は思っています。やはりベテランの先生でないとタイミングを見計らうのが難しいのではないかと考えるからです。
 「でも、生徒がミスをしたのに知らん顔をしているなんて、それでいいのでしょうか?ちゃんとミスを指摘した上で、正しいことを教えるのが先生の仕事なのではないでしょうか?」真っ当な質問です。先生としての仕事を放棄して、問題がなかったことにしているだけではないか?という疑惑ですよね(笑)。確かに、教えるのが大変だったり面倒くさかったりするならば、それをなかったことにしてサボりたいと考えるのが人間だともいえるでしょう。しかしながら、先生にとって教えるということは決して苦にならないのです。そもそも教えることが好きだからこそ、先生と呼ばれる職業に就いているはずですからね。教えたがるのが先生という人間なのですよ。その先生の本性に反して「教えずに見逃す」という選択をあえてできるところが、ベテランのなせる業だと言いたいのです。
 もちろん見逃すといっても、生徒が間違いに気づいていないときに知らん顔をしていてもはじまりません。ちゃんと指摘をして教えます。間違った理解のままでいられては困りますからね。当然、正しい知識を理解させてこその先生です。ところが「それは間違いです、正解はこれです」と伝えるだけでは、決して生徒の身にはつかないということも経験上よく知っているのがベテランの先生なのですよ。人から教えてもらったことというのはすぐに分かった気になります。と同時にすぐに忘れてしまうのです。もちろん生徒が「分かった!」と目を輝かせてくれるのは、教師にとってこの上もない喜びの瞬間であります。そのためにこそ授業の工夫や教材の研究も続けられるというものです。それでもこの「分かった」は曲者だ!ということに気づいていることが重要なのです。理解はしてもすぐに忘れてしまうというリスクを考慮しなくてはなりません。本当の意味で知識が身につくタイミングというのは、生徒自身が納得したときだけなのです。間違いに自分で気づき、それを消去できたときに、はじめて正しい理解だけが頭に残るという仕組みなのです。「人は消去法でしか学べない」という大脳生理学に基づく説明がありますよね。
 ポイントは、生徒が自分で間違いに気づいたときに、黙って見逃すことが先生にできるか?ということです。自分自身を振り返ってみても、自ら気づいたことというのは本当に一生覚えているものです。「気づき」というのはそれくらい重要なタイミングであり、生徒にとって最大の成長のチャンスだといえるでしょう。この体験を邪魔してはなりません。成長の機会を奪ってはならないのです。ここは自分の出る幕ではないと、先生が堂々と傍観できるということ。不問に付す、見て見ぬふりをすることができるというのが、あるべき教師像の一つだと私は考えるわけですよ。
2018.09.07 リカレント
 「リカレント」

 アメリカのアップル社が開催した開発者向けのイベントにティム・クックCEOから直々に招待され、「最高齢プログラマー」として紹介された日本人をご存知でしょうか?82歳のiPhoneアプリの開発者である若宮正子さんです。昭和の時代にはおとぎ話であった「コンピューターおばあちゃん」と呼ぶのに、まさにふさわしい人物です。若宮さんはおっしゃいました「人生100年時代、学齢期の教育だけでは不十分です」と。なんと若宮さんがプログラミングを始めたのは80歳になってからなのです!この若宮正子さんをメンバーに迎えたのが先月取り上げた「人生100年時代構想会議」です。もちろんグラットンさんもメンバーとして参加していますよ。人生100年時代を見据えた経済・社会システムを実現するための政策のグランドデザインを検討するために設置されたものです。この会議からの提言を受けて日本政府は「いくつになっても、誰にでも、学び直しと新たなチャレンジの機会を確保する。リカレント教育の抜本的な拡充を図ります!」と、発表しました。
 キーワードは「リカレント教育」ですね。リカレントというのは「循環する」ことを意味し、従来の教育が学校から社会へという一方通行であったのに対して、一度社会に出た人たちの学校への再入学を保障することで、学校教育と社会教育を循環的にシステム化することを目指しています。フルタイムの就学とフルタイムの就労を繰り返すことができる環境を整備することが求められているのです。急速に変化する社会に適応するために、義務教育が終わり社会に出てからも、個人が就学と就労を交互に行いながら、仕事に必要な知識や技術を学び続けることが望ましいという考え方に基づいています。
 ライフコースの図式で表すならば「教育」→「仕事」→「教育」→「仕事」という循環を、何度でも繰り返すことのできるのがリカレント教育なのです。
 日本は世界に先駆けて超長寿社会を迎えることになります。人生100年時代を見据えて、これまでの制度や慣行にとらわれない、新しい仕組みづくりが進んでいきます。我われはその真っ只中にいることを自覚しなくてはなりません。