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2023.12.29 一掬の水
 「一掬の水」

 「一掬の水を注いでやってはくれまいか」。私にとっての「恩師」、大先生からの言葉でした。あるチャレンジをする人物を応援してやってほしい、という依頼だったのです。ところが、私にもこれまで築いてきた人間関係がありまして、「あちら立てればこちらが立たぬ」という状況だといえました。それでも「応援します」と返事をしたのは、この「一掬の水」という言い回しに、心を動かされたからでもあるのです。
 「一掬」は「いっきく」と読みます。「掬」という漢字は、「訓読み」をすれば、イメージがわくでしょう。「一掬(ひとすく)い」になります。「水などを両手ですくうこと」を意味します。その「ひとすくい」の量から、「わずかなこと」を表してもいます。ですから「一掬の水を注いでやって」という依頼からは、「ほんの少しでもよいので、力を貸してやってくれないか」という願いが伝わってきたのでした。
 「一掬の涙」という表現があります。こちらも「雀の涙」や「蚊の涙」という言い回しと同じように「ごくわずかなもののたとえ」という意味合いで使われることもありますが、文字通り「両手ですくうほどの涙」ということであれば、それは「たくさんの涙」を流すということにもなるのです。ですから「一掬の涙を惜しまなかった」といった小説の中の表現には注意が必要です。人目をはばからず泣き続けている様子を表していますからね。
 「掬水月在手」という言葉も覚えておきたいです。漢文ですので日本語の書き下し文に直してみますと「水を掬すれば月手に在り」(みずをきくすれば、つきてにあり)になります。唐の時代の詩人である于良史(うりょうし)の詩「春山夜月(しゅんざんやげつ)」に出てくるフレーズです。「ふと、水鉢の水を両手で掬ってみれば、掌の中に月が映っているではないか」という場面をえがいたものですね。なんとも風流で、茶道の掛軸としてもよく掛けられている言葉なんですよ。
2023.10.04 ガラパゴス化
 「ガラパゴス化」

  私の使っている携帯電話はボタンを押して電話をかけるタイプです。折り畳み式でもあります。「ガラケーを持っているんですか!」と驚かれることもありますが、今や「ガラケー」は販売しておらず、私の携帯も「ガラホ」と呼ばれる「外見はガラケー、中身はスマホ」といった様式の電話なのです。通話とメール以外で利用することもありませんので、「アプリ」(アプリケーションソフトウェア)とも無縁です。特に新しい機種に変更する必要を感じないのですが、「インターネットの検索はどうするのですか?」と心配されたりします。パソコンを使って書き物をする際にはもちろん検索しますが、辞書を引く感覚なので、辞書を持ち歩かないのと同様に、携帯で調べようとは思わないのです。
 こうした態度にかつての教え子(もう社会人として活躍しています)から、「ありえないですよ、ガラケーなんて!」とからかわれたものですから、反発してみたくなったのです。「ガラパゴスというのは進化の最先端に位置するんだぞ!」と。
 ガラケーの「ガラ」は「ガラパゴス化」の略で、日本独自に発達した技術やサービスが世界的な標準規格からは、かけ離れていってしまった状態のことを意味しています。その結果、競争力の低下をまねいた状態を指すこともあり、世界から取り残されていることを揶揄する表現としても使われています。そもそも「ガラパゴス」という言葉は、南米の「ガラパゴス諸島」に由来します。南米といっても、エクアドルから太平洋に向かって西に900㎞離れている「絶海の孤島」の集まりです。この島々は過去に一度も大陸と接したことがないため、島全体の生態系が独自の進化を遂げているのです。ガラパゴスゾウガメ、ウミイグアナ、ガラパゴスペンギンなどといった、ガラパゴス諸島でしか見ることのできない固有種の宝庫です。しかしながらガラパゴス諸島は外来種や環境破壊により、世界一絶滅危惧種の多い島だとも警告されているのです。
 「ほら、取り残されて危機に瀕しているという意味じゃないですか」と教え子くんは指摘しますが、皆さんに知ってほしいのは「独自に進化を遂げた」という部分なのです。生物として最適化を進行させたのですよ。その結果、唯一無二の存在になったのです。決して「退化」ではないということを理解して下さいね。でも私も、スマホで検索できるように適応したいと思います!
2023.09.14 惻隠の情
 「惻隠の情」

 何やら難しそうですよね。「そくいんのじょう」と読みます。「相手のことを思いやる気持ち」を意味しています。「惻」という漢字が見慣れないですよね。でも部首である「りっしんべん」に表されているように、「心を測る」=「相手の心を推し量る」ことを意味しています。「隠」については、「かくす」という意味のほかに、「慇」(イン)と同じく「相手をいたむ」という意味があります。ですから「惻隠」という熟語で「相手に寄り添って心配する」という内容になるのですね。
 「惻隠の情」という言い回しには出典があります。中国の古典『孟子(もうし)』です。孟子は中国の思想家で、その言葉や行いをまとめた書物が『孟子』になります。今からおよそ2300年前、紀元前4~3世紀、中国の戦国時代にあたりますよ。『孟子』には次のような一節が登場します。「井戸に落ちそうになった子どもを見たら、思わず手を出して助けようと思う」と。この気持ちを「惻隠の心」と表現したのでした。相手の立場になって同情するという「人間らしい」感情の一つとされています。この「人間らしさ」を突きつめて、孟子は「性善説(せいぜんせつ)」を唱えました。ここでいう「性」とは「天から与えられた人の本質」を意味しています。また「善」とは「道徳的に正しいこと」という意味です。ですから「性善説」というのは「人は本来、善である」ということになります。危険にさらされた幼子を見るに見かねて助けようとする気持ちを、人間なら誰しも持ち合わせているという考えですね。
 ですがここで少し注意が必要です。「性善説」をあまりに素朴に理解してしまうと、「人間は存在そのものが善である」という楽観的な解釈になってしまうのです。「何もしなくても立派である」と。孟子の教えは違います。「善は絶えざる努力によって開花され」そしてその結果「立派な人間になれる」というものなのです。「惻隠の情」は、いわば「種」のようなものであり、「開花」させるためには努力も必要になるということです。孟子はこれを「惻隠の心は仁(じん)の端(たん)なり」と表現しました。「仁」というのは「人を思いやる気持ち」のことで、道徳的に人として正しい生き方を示す言葉になります。人間が生まれつき持っている「惻隠の情」からスタートして、完成形である「仁」を目指して努力すること。自然の心の延長線上に徳はあるのだから、「人間ならばできるはず」というのが「性善説」の持つ意味なのですよ。
 さてこの「惻隠の情」について、「これは人類学的真理なんです」と解釈するのが思想家の内田樹先生です。あまりなじみのない「人類学」という言葉が出てきました。「経済学」や「物理学」ならば知っていますよね。「経済学」を「経済についての学問」と考えれば分かるように、「人類学」も同じように「人類についての学問」ということなのでしょうか?その通りです!東京大学にも「人類学研究室」があります。研究室のホームページには次のような「人類学とは」という紹介が載せられていますよ。「ヒトは、大きな脳を持ち、二足で歩き、言語で互いに意思疎通を行い、自らの生息環境を脅かすまでに文明を発達させた、極めて特異な生物です。『人類学』とは、このヒトという特異な生物が、なぜ、どのように誕生し、どのような生物学的特徴を持った存在であるのかを、科学的に明らかにしようとする学問です。ただし、ヒトは『文化』を持っている点でほかの動物と本質的に異なっています。このため現在の人類学は、便宜上ヒトの生物的特質を研究対象とする『自然人類学』と、文化的特質を研究対象とする『文化人類学』に分かれています。」
 ここでぜひ皆さんにも知っていただきたいのが、この「文化人類学」という学問です。人類の文化的側面を研究する学問ですね。文化によって異なって見える「生活様式・言語・習慣・ものの考え方」などを比較研究して、そこに人類共通の法則性を見い出そうとするものだと理解してください。世界には多様な文化と社会が存在します。そんな「異文化」を俯瞰して、「人類」という大きなスケールで「社会とは?」「文化とは?」そして「人間とは何か?」を考えることが文化人類学なのです。「現代文」の重要なテーマの一つにもなります。
 話を元に戻して、「惻隠の情」が「人類学的真理」だという話です。内田先生は著書『複雑化の教育論』の中で、「人間は他者からの支援要請を聴き取った時に主体として立ち上がる」とおっしゃっています。どういうことでしょうか?「支援要請」というのは、「手をかしてほしい」ということで、もっと端的にいうと「助けて!」というメッセージです。それを受け取った人が「助けなければ」という気持ちになることが「惻隠の情」です。「主体として立ち上がる」というのは、「あなたがいてくれてよかった!」という強力なメッセージが届くことで、「ほかでもないあなた」が承認されるということです。このことは、人は「頼りにされている」という場面で本来の力を発揮できる、ということでもあります。身近な例をあげると、「頼んだぞ!」とバトンを渡されたリレーのアンカーが、自己ベストを更新してトラックを走りぬける、といったケースです。これも「人間とはどういう生き物か?」を考察する人類学的な研究の対象になるのですよ。
 「インクルージョン」

 東京大学が「ダイバーシティ&インクルージョン宣言」を定めました。この宣言は「ダイバーシティ(多様性)の尊重」と「インクルージョン(包摂性)の推進」という二つの項目によって構成されており、「多様性」と「包摂性」が均等な価値を持つことを示しています。そして東京大学が、世界的人材を輩出していくためには「多様性」と「包摂性」を実現することが不可欠である、と考えていることが分かる内容になっています。
 ダイバーシティ(diversity)とは、英語で「多様性」を意味する言葉であり、皆さんも耳にすることが多くなったと思います。集団において、年齢・性別・人種・宗教・趣味嗜好など様々な属性の人たちが集まった状態のことを指しています。東京大学の宣言の中でも、そうした属性によって「差別されることのないことを保障します」とうたわれています。 ダイバーシティは、一人ひとりが自分らしく生きることができる社会をつくるための普遍的価値になります。つまりダイバーシティは、基本的人権に根差し、無条件に尊重されるべき理念なのです。
 一方、インクルージョン(Inclusion)は、英語で「受容(受け入れる)」という意味があり、宣言の中では「包摂性」と訳されています。東京大学といえば、受験生にとっては最も「狭き門」というイメージがあります。その東京大学が「受け入れます」と宣言しているのですから、これはどういう意味になるのでしょうか。この部分の宣言にはこうあります「様々な属性や背景を理由に不当に排除されることなく参画の機会があることを保障します」と。無条件に認められる「多様性」に対して、「包摂性」は「不当に排除されない」という扱いになっています。「不当に」の反対は「公正に」ということでしょう。ですから「不当に排除される」ということの反対を「公正に選抜される」ことだと理解すれば、東京大学で学ぶことが無条件で認められるわけではないことが分かりますよね。さらにインクルージョンに関する決定は「一度きりの最終形ではなく、社会や時代の文脈によって不断に問い直され、見直される」とも表明されています。東京大学の真摯な姿勢がうかがわれます。
 多様な個性と背景、多彩な才能を持つ人々が集まり、差別や偏見を克服する活気にあふれた「東京大学コミュニティ」をつくりたい、という宣言でもあります。総合大学である東京大学の中では、無数の、そして広範囲の活動が、現在進行形で展開されています。そこに「誰でも学べる」「みんなで学べる」という観点で参加が可能になるような地域に開かれた東京大学の姿を、私も卒業生の一人として、また東京大学に隣接する町会コミュニティにも属している一人として、期待してしまいます!
2023.07.07 飽和状態
 「飽和状態」

 「日本が経済成長を望んだところで、もはや成長期も終えた段階ですよ。すでに消費者のニーズもサチっちゃってますから、大幅な回復なんてあまり考えられないと思いますが…」と言うのは、かつての教え子君です。現在、東京大学の博士課程に在籍していて、将来は政府系のシンクタンク(政策立案・提言などを行う研究機関)に勤務したいという希望を抱いている青年です。「そこを何とか考えるのが、君の仕事になるんだろうが!」と、小学生の頃から知っているよしみで、私も遠慮せずに話をします。教え子がこうして今でも訪ねてきて、話を聞かせてくれるというのは、本当に教師冥利につきます。「最近の若者の傾向」を知るという意味でも、私にとって有益かつ貴重な時間となっています。
 今回の会話の中で「今の20代は、こんな言葉の使い方をするのか」と驚いたのが、この「サチる」という言い回しなのです。「サチる」は「saturation(サチュレーション)」という英語に由来します。その意味は「飽和状態」ということであり、そして「サチる」という用法で「飽和状態になる」ことを表しています。飽和状態というのは「これ以上の余地がないほどに、いっぱいの状態であること」を意味しています。理科の実験を思い出してください。水に食塩を「もうこれ以上溶かすことができない」ところまで溶かしたものを「飽和食塩水」と呼ぶのでしたね。濃度が物理的に限界を迎えた状態です。でも、デジタルネイティブ世代である20代が、理科実験から「サチる」という言葉を使うようになったわけではないでしょう。ネットワークで「サチる」というと、通信するための帯域がいっぱいになったり、データの処理が限界に達してしまったりして、「それ以上速度が出ない」という状態を指すのだそうです。ここから「数値が上限となり、これ以上増やせない」状況全般を「サチる」と言い表すようになったようです。
 また、皆さんはこのカタカナの「サチュレーション」を、最近見聞きしませんでしたか?そう「血液中に溶け込んでいる酸素の量」である「血中酸素飽和度」のことを意味していて、「サチュレーションが低下した危険な状態」といった用法で、ニュースでも取り上げられていましたよね。新型コロナウイルス感染症患者の病状を判断する目安として、用いられているものです。指先に装着して血中酸素飽和度を測定できるパルスオキシメーターという機器も注目されましたよね。患者の重症化をいち早く察知することができるからです。
 さて、教え子君が語ってくれた日本経済についてです。例えば、現在日本における自動車の普及率は、一世帯あたり一台を超えています。車を必要とする家族のほぼ全てが、自動車を所有している状態であるといえます。ですから、車を買い替えるといった需要はあったとしても、車がどんどん売れて台数が大きく増えるということは考えにくく、「自動車の飽和」を迎えているのが現状なのです。同様に、日本ではほとんどのモノが飽和しており、もはや量的拡大では経済は成長しない、というのが話の流れになります。
 ここで「経済」を「学習」に置き換えて、少し考えてみたいと思います。経済と同様に学習も、右肩上がりに成長を続けることが理想ではありますが、「学習曲線」と呼ばれる「練習量」と「理解度(習熟度)」の関係を思い出してみて下さい。学習を開始したばかりの「準備期」には、覚えることがたくさんあって、学習はどんどん進みます。そしてこの「準備期」を経ることで、学習者の「知識の受け皿」が広がり、次から次へと吸収することができているという実感がともなう「発展期」を迎えることになります。周りからも「成長しているね」と見られるのは、この時期にあたるのですね。ところが、「学習曲線」はここからあたかも停滞しているように見える「高原期(グラフが平らになる時期)」を迎えることになります。「これ以上知識を増やせない」と感じてしまう「飽和状態」に陥るのですね。ですがこの「サチった」状態こそ、新たな発展期を迎えるための準備期間として極めて重要になるのです。学習者にとっては、頭打ちのようで伸びを実感しにくくなるのですが、この時期にこそ、「量的」拡大から「質的」理解へと進化する大きな転換が行われているのです。本当の意味での「成果」は、このタイミングで獲得されるのだと言えるでしょう。そして理解の質が高まれば、飽和状態だと思われた知識も、さらに発展的に受容できるようになり、「成長する」スピードまで次第に速くなっていきます。学習曲線では「発展期」というステージを、周期を重ねるように何度も経験していくものなのですよ。
 「なるほど。量的な拡大を成長と捉えるだけでなく、質的な豊かさの拡充を成長と見なすのですね。」そうですよ、教え子君。「サチってからが勝負!」という理解で、日本経済の立て直しに向けた新たなビジョンの作成に力を注いで下さいね。
2023.06.07 神出鬼没
 「神出鬼没」

 「前ぶれもなく突然現れたり、急に消えたりすること」を意味する四字熟語ですね。「しんしゅつきぼつ」と読みますよ。「神のように現れたり、鬼のように消えたりする」というのが、文字通りの意味になりますね。「神」や「鬼」というのは、その所在を確認することが難しいという対象であり、当然その「出没」についても、全く予測がつかないということになります。神様や鬼が登場する日本の昔話が元になっている言葉なのでしょうか?実は日本ではなく、中国の古典に由来する言葉だと言われています。それは『淮南子(えなんじ)』という思想書です。「塞翁が馬」(「人生の運・不運は予測できないものだ」という意味の故事成語)の出典として、聞き覚えのある人もいるでしょう。紀元前の二世紀、前漢の武帝の時代に編纂され、政治や兵学、天文や地理にいたるまで、内容は「百科全書」的なバラエティーに富んだものです。その中の、戦いの策略について述べられた「兵略訓」に「神出鬼行(=神出鬼没)」という言葉が登場してきます。漢文を日本語訳してみると次のようになります。「用兵に長けている者の行動は、神出鬼没である。星が輝くように、天がめぐるように、一挙一動は、前触れもなく、傷跡も残さない。動き出す様は疾風の如く、駆け抜ける様は稲妻の如くである」と。迅速な行動こそが肝要である!と強調しているのですね。
 「神出鬼没」と聞くと、私は子どもの頃に観たアニメを思い出します。「神出鬼没の大泥棒!」というセリフとともに、今で言うとグローバルに活躍?する主人公のお話です。世界中の警察が彼を逮捕しようとして血眼になっている、という設定でした。「神出鬼没」も、「血眼」という表現も、このアニメで初めて耳にしたように思います。それを今でも覚えているのですから、「最初の出会い」と言いますか「ファーストインプレッション」は、やはり大事なのだと思いますね。「かっこいいセリフだな」と、子ども心に憧れた感情とともに記憶がよみがえりますから。
 これを現在の世界にあてはめると、「グローバルに活躍していて」、その作品を「皆が血眼になって探している」という条件にぴったりと当てはまるアーティストが思い浮かびます。名前を、バンクシー(Banksi)と言います。イギリスを拠点とする素性不明の「路上芸術家」で、もちろん生年月日も未公表の人物です。世界中のストリート、壁、橋などを舞台に、まさに「神出鬼没」の活動を行っています。最近では、ロシアの侵攻が続くウクライナの首都キーウで作品が発表されましたよね。「柔道着姿の相手を投げ飛ばす小さな男の子」が描かれた壁を、ニュースで見た人も多いのではないでしょうか。
 ところで「壁に絵を描く」という行為は、人類の芸術の起源だと言えるのではないでしょうか。思い出してください、クロマニョン人と呼ばれる現生人類(ホモ・サピエンス)による「ラスコーの壁画」を。歴史の教科書にも載っていましたよね。フランスのラスコー洞窟で発見された野生動物の絵になります。鋭い観察眼に基づいた表現が駆使され、まるで生きているかのような躍動感に満ちた「作品」ですよね。今から約二万年前に描かれたものだとは思えないほどです。もちろん世界遺産にも登録されていますからね。
 さて、「神出鬼没」のバンクシーです。実は東京でも、その作品が発見されているのをご存知でしょうか。2019年1月、東京都港区の東京臨海新交通臨海線(通称「ゆりかもめ」)の日の出駅近くの防潮扉で「1匹のネズミの絵」が見つかりました。トランクケースを持ったネズミが傘を差して、どこか旅行にでもでかけようとする姿を描いた小さな絵になります。実は以前からその場所に描かれていたようなのですが、「1月17日」に突然話題となったのでした。きっかけは、その日に投稿された、小池百合子東京都知事の写真入りのツイッターです。「あのバンクシーの作品かもしれないカワイイねずみの絵が都内にありました!東京への贈り物かも?カバンを持っているようです。」この「つぶやき」を機に、一挙にマスコミの話題となったのでした。
 「本当にバンクシーによる作品なのか?」という検証もすすめられました。現時点でも真贋は確定されていないようですが、「おそらく間違いない」という判断です。というのも、バンクシー自身が編集に関わった初期の作品集『Wall and Piece』の中に、この作品の写真が掲載されているからです。「東京2003」とキャプション(写真の説明のための文字情報)もつけられています。東京都のホームページには「公共物への落書きは決して容認できるものではありませんが」と前置きしたうえで、「地元の方々からは…多くの都民が見学できるようにして欲しい旨の要望があり、日の出ふ頭の賑わい向上にも資することから、絵の描かれた防潮扉が設置されていた場所に近い同ふ頭において展示することとしました。」とあります。現在も、日の出ふ頭2号船客待合所で常設展示されていますよ。皆さんも機会があれば、「神出鬼没」の芸術作品を目の当たりにしてみませんか!
2023.05.22 長寿命化
 「長寿命化」

 中学校PTAの皆さんと懇談をする機会がありました。中学生のお子さんを抱えている保護者の皆さんですから、「子育て」のキャリアも優に十年は超えていらっしゃいます。お話を進めていると「体に無理が利かなくなってきましたよ」といった、お互いの年齢に相応した話題が、ちらほらと出てくるのです。「関節の可動域がどんどん狭まってきましたよね」(いわゆる「四十肩・五十肩」という症状です。)だとか、「いくら寝ても疲れが取れませんよね」(いわゆる「慢性疲労」という症状です。)だといった、体調をめぐって「いつもどこかがよくない」という話で盛り上がったりしてしまうのです。「腰が痛い」というのも「胃がもたれる」というのも、それはもう日常茶飯事なのです。ですからCMでも毎日流れてくるのが「痛みに効く」だったり「すっきり爽快」などといったフレーズですよね。世の中にはどれほど不具合を抱えている大人が多いのか、中学生の皆さんにも分かるというものでしょう。
 それでも大人は、「老朽化」などないかのように、日々仕事をこなしています。もちろん深刻な症状が出てからでは遅いので、健康状態には気をつけているということは大前提です。その上で、体調には波があり、毎日が常にベストの状態であるということは、そもそも「有難い」(めったにない)ことなのだと大人は知っているのです。仕事に関してもそうです。常に順調で何のトラブルもない、ということの方がむしろ例外的なのだと知っています。うまくいくこともありますが、思うようにならないことが次々と続いて、ひっきりなしに調整することを余儀なくされたりするものです。でもそれが普通なのです。人間の行動には、ある意味「不具合」が生じてしまうものだ、という認識が必要なのです。それを「不具合をおそれて行動をおこさない」という判断をしてしまうのは、本末転倒というべきです。たとえ不具合がおきたとしても、「タイミングよく問題が顕在化した」と捉えて、どう対処すればよいかを考えて前進した方がより現実的なのですね。
 ところがこの処世術(社会をうまく生きていくためのスキル)めいた大人の行動様式に「反発」や「軽蔑」を感じてしまうのが、思春期真っ盛りの中学生なのですね。「こうあるべきだ」という理想を掲げて行動をおこしたのに、それにそぐわない事態が生じてしまうと、「それならば行動すべきではない」という判断を下してしまうという傾向ですね。もっと日常的な例で言うと、「思ったようにできないならば、やらないほうがましだ!」と考えてしまうわけです。大人であれば「妥協しながらでも続けることに意義がある」と思うのですが、「全てをリセット」したほうが潔いと考えるのです。「ゼロから作り直そう!」と。確かにこの「スクラップ・アンド・ビルド」(解体と構築)という行動様式は、青春時代の特権ともいえます。「続けることに意味がある」などという大人の常識にとらわれず、「解体しては構築し直す」という発想で、次々と新しいことにチャレンジしていくことも、「自分のやり方」を確立するまでは、とても重要になるからです。長い間の取り組みを通じて既に形骸化してしまったといえるものでも、大胆にスクラップすることが難しくなるのが大人の立場の弱点ですから。
 しかし、では何でも「スクラップ・アンド・ビルド」で!ということになるかというと、もちろんそうではありません。身近な話を紹介しましょう。皆さんが通っている学校の話です。日本の多くの学校施設は、昭和の時代、とりわけ人口増加と都市化の進展した「高度経済成長期」に、盛んに建てられてきました。当時は「建設ラッシュ」とも呼ばれていましたよ。それから50年を経て、学校施設では老朽化対策が大きな課題となっています。しかも「では取り壊して、新しく作り直せばいい」という単純な話にはならないのです。近年、環境保全の観点から様々な分野で「SDGs」がスローガンとして掲げられており、「持続可能性」が追求されています。建設の分野も例外ではありません。既存の建物をメンテナンスしながら永続的に使い続けるという取り組みが実施されています。これが「建て替え」ではない「長寿命化」の考え方です。施設は経年により老朽化します。これは避けられないことです。また、施設に求められる機能も時代とともに変化します。状況に応じた組み換えは必須になります。そうした中で、老朽化した施設を将来にわたって長く使い続けるため、単に物理的な不具合を直すだけではなく、建物の機能や性能を現在の学校が求められている水準にまで引き上げることを「長寿命化」改修と呼ぶのです。
 学校施設は未来を担う子供たちが集い、生き生きと学び、生活をする場です。また地域住民にとっては、非常災害時には避難生活のよりどころとしての重要な役割を果たします。文部科学省では「長寿命化」を推進するため、長寿命化改修の事例集や計画策定のマニュアルなどを公表しています。単なる補修や改修ではなく、長寿命化と同時に時代の進展に応じた施設の改善が可能になるのだと、積極的に後押ししていますよ。アクティブ・ラーニングなどの学習形態の多様化に対応した多目的スペースを整備したり、バリアフリー化を図ったり、子どもたちに不人気のトイレ環境を改善したりと、さまざまな工夫を取れ入れている自治体が事例集では紹介されていますよ。
2021.10.25 リアクション
 「リアクション」

 今年の夏は東京でパラリンピック競技大会が開催されましたね。記憶に残る熱戦が繰りひろげられました。個性や能力を自分たちらしく発揮する選手たちの活躍に目を奪われましたよね。今回のパラリンピック競技大会を契機に、われわれ一人ひとりが多様性への理解を深めていくことにつながっていったと思います。「誰もが生きやすい社会を目指して」というのが、大会が掲げた目標です。社会の様々な分野において、ダイバーシティ(多種多様性)とインクルージョン(包括・一体性)を推進していくことが求められています。多様な個性のある人々が、自分らしさを発揮しつつ、違いを認め合い、そしてその違いを活かしながら協力することの必要性を、多くの人々に認識してもらうこと。この大会の意義は十分に果たされたと思います。
 さて私は、パラリンピックの三つの競技で、メダル授与式のプレゼンターを務めさせて頂きました。金・銀・銅のメダルをのせたトレーを、選手の方々のもとに運ぶ任務ですね。組織委員会から「運営貢献者」ということでご指名があったのです。ブリーフィング(事前の説明)では「メダリストにはコングラッチュレーションと、一言お願いします」と連絡があったのですが、メダリストの皆さんが全員「英語圏」出身の選手というわけではありませんよね。せっかくですから、英語だけではなくフランス語・中国語・ロシア語での「おめでとうございます」を確認しておきました。ドイツ語やスペイン語を準備しなかったのは、担当する競技のファイナリスト(決勝戦進出者)にはいらっしゃらなかったからです。ちなみにフランス語では「フェリシタシオン」、中国語では「ゴンシー、ゴンシー」、ロシア語では「パズドラヴリャーユ」になります。でも「カナ表記」を覚えたとしても、「発音」が正しくなければ相手に伝わりませんよね。そこでインターネットの動画を見て、ネイティブスピーカー(その言語を母国語として話す人)の発音を繰り返し耳にしておきました。なんと便利な世の中になったものだと、感心しながらです。デジタルネイティブ世代(生まれたときからインターネットが身近にある世代)である方々にとっては「当たり前」なのかもしれませんが、私が外国語を勉強しようとした何十年前には「夢」でしかありませんでしたよ、本当に。こうしてインターネットの恩恵にあずかった結果、フランスの選手からは「メルシー(フランス語でありがとう)」と、中国の選手からは「シエ、シエ(中国語でありがとう)」と笑顔で返事が戻ってきましたよ!私が事前の準備をしようと思ったのは、このリアクションをイメージしていたからなのです。
 「リアクション」は英語の「reaction」が由来の言葉ですが、日常会話でもよく耳にするようになり日本語として通用していますよね。「反応」という意味になります。「話をふられたときの反応」のことを「リアクション」という言葉で表現することに慣れているのではないでしょうか。大げさな「リアクション」を芸風とするお笑いタレントさんの活躍でおなじみですよね。「reaction」を分解すると「re」+「action」になります。「action」は「アクション」で「行動」「動作」を意味しますよね。「re-」という接頭辞は「再び」「反対に」を意味する「リ」になります。「リターン」や「リフォーム」の「リ」も同じですよ。そう考えると「リ・アクション」を「反・作用」と訳すことができますよね。物理の「作用・反作用の法則」というのは「action-reaction law」になりますからね。
 「作用があればかならず反作用が生じており、その大きさは等しく方向が反対である」これが「作用・反作用の法則」です。「リアクション」をこの「反作用」であると考えると、「アクション」すなわち「行動」をおこす際に注意すべき点が見えてくると思います。相手に対して何らかの働きかけをする場合に気を配るべき点です。物理の法則では相手に作用するのは目に見えない「力」になりますが、人間関係においては「相手に対する関心の度合い」が作用するのだ、と考えてみてください。相手に「無関心」のまま働きかけたとしても、返ってくるのは「無関係ですよね」というつれない対応になります。少しでも「あなたに関心があります」という態度で働きかければ、「私のことを見てくれている」という反応が返ってきますから。メダル授与式の例でいうと「あなたがフランス人であるということを知っていますよ」という意味を込めて「フェリシタシオン」と声をかけると、「メルシー」という笑顔の返事が戻ってくるのです。相手がどんなリアクションをするのだろう?と考えること自体が、相手に対して関心を払っているということになりますからね。

 「みどりのウォーキングコース」

 例年であれば新年会等の会合を通じて、地元町会の皆さまをはじめ各種団体の方々に「今年もよろしくお願い致します」とご挨拶をさせて頂き、あらためて様々なご要望などをお伺いするタイミングでありました。ところが昨年来の「コロナ禍」で、それも叶わぬ事態です。今年の干支は「丑」であります。「牛の歩み」と申しますが、「先を急がず、目の前のことを着実に進める」という指針として受けとめたいと思います。感染症の先行きが見通せない状況の中でも「新しい生活様式」が定着してくるなど、これまでの社会構造のあり方を見直す機会になっています。区政においても、身近なところから確実に進展をさせることが重要になってくるのでしょう。
 「文京区みどりの基本計画」が改定され、「緑化重点地区」が文京区全域に広げられることになりました。「文京区全域をみどりでいっぱいにする!」という意気込みはいいでしょう。にもかかわらず、令和になってからの実績において、「生垣造成補助」「屋上緑化補助」といった文京区の助成事業は、ともに0件という体たらくです。「申請がありませんでした」では、すまされないだろうと厳しく追及しました。文京区の本気度をアピールすれば、その心意気に応じる区民の方は必ずいらっしゃいますし、そうした情報をお持ちの業界の皆さまからの協力も必要でしょう。
 また「文京ウォーキングガイドブック」が改訂されました。コロナ禍において運動の機会が減少する中で、三密を避けながら安全に健康づくりを進められるウォーキングが注目されています。文京区のコースマップが提示されているのですが、「学問の道」「文人の道」「文学の道」と、名所・旧跡を巡るコースになっています。アカデミー推進部に所属するスポーツ振興課が作成するとこうなるのでしょう。しかしながら、「街歩き」ではなく「ウォーキング」が目的のコースです。気持ちよく歩き続けることが重要で、立ちどまって史跡を確認する必要はないわけです。そこでアカデミー推進部に、土木部と協議して「みどりのウォーキングコース」を作成することを求めました。播磨坂の緑道(東京都が「みどりの新戦略」の中で優良空間の例として掲げています)や、後楽緑道(文京区景観創造賞を受賞しています)はもちろんのこと、「接道緑化」(施設や事業所の敷地で、道路に接している部分の緑化)の進んでいる箇所を結んで、オリジナルのコースを作成するのです。「文京区全域を緑化する」という目標を掲げているのですから、特に接道緑化の推進は今後も優先される課題となるでしょう。小さくても改善を進めることが、文京区全体をブラッシュアップすることにつながると確信しています。丑年の今年だからこそ、たゆまぬ歩みを進めていきたいと思います。
 「ふるさと歴史館」

 文京区には「ふるさと歴史館」という施設がありますが、文京区を「ふるさと」だと感じるというのは、そもそもどういった感情なのでしょう。田舎であれば「ふるさと」といえば自然の景観がイメージされます。文部省唱歌の『ふるさと』に描かれているような「兎追いし山」だの「小鮒釣りし川」だの、いつまでも変わらない原風景が思い浮かぶのでしょう。ところが都心も都心にある文京区であってみれば、「変わらぬ姿をとどめているもの」など、そうありはしないわけです。あえて言えば、建て替えサイクルの長い「不動産」こそが、今も昔と同じ姿で残っているものなのでしょう。とりわけ、子どもの頃から馴染みになっている「お店」などは、高齢者となってからも懐かしさとともに「ふるさと」を感じさせるものであると思います。
 ちょうど一年前の1月31日、惜しまれながら閉店した『江知勝』さんはご存知のことでしょう。明治4年(1871年)創業の老舗のすき焼屋さんでした。明治の初めから続いたお店ですので、すき焼屋というよりも文明開化の象徴である牛鍋屋と呼ぶのがふさわしい雰囲気がありました。菊池寛が川端康成と横光利一を引き合わせて「牛鍋をごちそうした」お店であり、つまりは新感覚派が誕生した場所であり、ひいては川端康成をノーベル文学賞に導いたお店であるともいえるのです。川端康成による直筆の芳名録も残されていますからね。
 自民党文京区議団は、『江知勝』さんの歴史的価値と区民の愛着をうったえて、文京区の「ふるさと歴史館」からのアプローチを求めました。「ふるさと」を懐かしむということの意義をあらためて区にも認識してほしいとの思いからです。高齢者の居場所作りと思い出作りに欠かせない「不動産」の公共的な価値は、しっかりと評価すべきです。人生の晩年においては活動範囲も狭くなります。生まれ育ち住み慣れた場所で、自らの人生を振り返りつつ、懐かしい「ふるさと」を感じながら自分らしい生活を最期までおくれるようにすること。地域共生社会の実現が目指されています。国はこれを「我が事・丸ごとの仕組みづくり」と呼んでいます。
 5年後の2025年には4人にひとりが75歳以上という状況に日本は突入します。制度の「縦割り」や、これまでの「支え手」「受け手」という関係を超えて、地域の多様な主体が「我が事」として参画し、分野を越えて「丸ごと」つながることで、本当の意味で地域特性を活かした「文京区版地域包括ケアシステム」の構築が求められているのです。様々な分野との協働を通じた重層的なセーフティーネットをつくりあげること。それは「ふるさと文京」の価値を高めていくものだと確信しています。