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 兵庫県西脇市「日本のへそ条例」

 今回紹介するのは兵庫県西脇市で制定された条例になります。その名も「日本のへそ」条例です。ここでいう「へそ」とは、人間の体の中心に位置するもの、という意味合いになります。ですから「日本のへそ」というのは「日本の中心に位置する」ということになるのです。西脇市は、東経135度と北緯35度の交会点(経線と緯線が交わる地点)があることから、「日本のへそのまち」としてPR(広報)しているのです。
 「先生、東経135度といえば明石市ではないのですか?」という声が聞こえてきそうです。そうですよね、確かに教科書にも次のように記されています。「日本の標準時子午線は、兵庫県明石市を通る東経135度で、その上に太陽が位置するとき、全国いっせいに午後0時となります」と。でも、北極と南極を結ぶ縦の線が経線ですから、当然日本列島を縦断しているはずなのです。そう、日本標準時子午線が通るのは明石市だけではありません。兵庫県の中だけでも9市、京都府と和歌山県をくわえると12市にもなります。北から、京都府の京丹後市、兵庫県の豊岡市、京都府の福知山市、以下兵庫県の丹波市、西脇市、加東市、小野市、三木市、神戸市、明石市、淡路市と続き、最後に和歌山県の和歌山市(友ヶ島)に至るのです。
 ではなぜ、明石市が「子午線のまち」として認知されているのでしょうか。実はこれもPR(広報)の結果なのです。今から百年以上前の1910年、日本標準時子午線が明石を通っていることを示す標識が立てられたのが、子午線のまちとしてのスタートだったのです。
 「先生、135度ですが、どうしてそんな中途半端な数字になったのですか?140度なら東京湾を通るので、日本の時間はこっちに決めたほうが都合がよかったのではないですか?」という質問を受けたことがあります。確かに日本標準時は東京にあったほうが、日本国内の政治・経済的には都合がよかったのかもしれませんね。でも、135度が選ばれたのは「15」で割り切れる数字だったことが理由になるのです。地球の一周360度を24時間で割ると15度となり、経度15度ごとに1時間の時差があることになります。東経135度では世界標準時(経度0度)からちょうど9時間(135÷15)の時差となるのですね。もし東京の少し東側を通る東経140度を日本標準時としていたら、9時間20分という逆に中途半端な時差となってしまうのでした。
 140度といえば、もう一つ覚えておいたほうがいいポイントがあります。それは東経140度と北緯40度の交会点です。10度単位の経線・緯線で交差しているのは日本に一ヶ所しかありませんよ。秋田県の大潟村です、記念塔も立っていますから。「世紀の大事業」と呼ばれた大潟村の誕生についてはご存知ですよね。面積220K㎡と日本の湖沼面積では琵琶湖に次ぐ第2位であった八郎潟。この大部分の水域が干拓によって陸地化され、陸地部分が大潟村になったのでしたね。戦後の食糧不足を解消するために、国の事業として農地を増やす計画が進められました。日本の土木技術を結集し、またオランダの技術協力を得て、計画・着工・試行錯誤を重ねながらの工事を経て、実に20年の歳月をかけて大事業が完了したのでしたね。
 さて「日本のへそ」の話でした。西脇市以外にも「日本のまんなか」を名乗る市は存在します。群馬県の渋川市です。本土最北端である北海道の宗谷岬と本土最南端である鹿児島県の佐多岬を結ぶ一本の直線の真ん中に位置しているのが渋川市だというのです。ちなみに佐多岬には道路標識が出ていて「本土最北端の宗谷岬まで2700km」と表示されていますよ。日本地図を広げて線を引いてみてください。確かに渋川市は「日本列島の真ん中」といえる場所にあります。渋川市が「日本のへそ」である根拠には、もう一つ歴史的な背景があります。時は平安時代、桓武天皇により征夷大将軍に任ぜられた坂上田村麻呂が蝦夷征討を行い、802年に帰京の途中に渋川の地に立ち寄り「ここは日本の中心地である」と「臍石(へそいし)」を置いたというエピソードが伝えられているのです。現在でも渋川市では、毎年「渋川へそ祭り」というイベントを開催しています。
 西脇市の立場が危うくなってきました?そこで、というわけではないですが「日本のへそ」をPR(広報)することが重要になるのです。明石市の例もありますからね。西脇市の条例を見てみましょう。「日本のへそ西脇地域食材でおもてなし条例」が正式な名称です。平成28年の制定になります。地域経済の活性化を図る目的を持つ「おもてなし」条例ですよね。「地域食材の魅力について認識を深め、その魅力を広く発信し、本市に更なるにぎわいの創出を目指します」という。他の自治体でも多く制定されている条例ですから、西脇市のねらいは「日本のへそ」を盛り込んでPRすることにもあるように思えます。
 西脇市と渋川市、ライバル関係にあるのでしょうか?いえいえ、「へそ」を名乗る自治体はなんと全国で10もあるのです!「全国へそのまち協議会」を結成して、北は北海道富良野市から南は沖縄県宜野座村まで、お互いに親善と交流を深めながら、産業や文化の振興、活力と魅力ある地域づくりに取り組んでいます。西脇市も渋川市もそのメンバーなのです。さらには、加盟市町村が全国に点在しているという地理的特性を活かして、災害時の応援体制を定めた災害時相互応援の覚書も締結されていますよ。総務省消防庁の報告によると、こうした災害時の相互応援協定の締結については多くの自治体で進められているということです。
島根県津和野町「美しい森林(もり)づくり条例」

 今回紹介するのは島根県津和野町で制定された条例です。津和野城の城下町として発展した津和野町は「山陰の小京都」とも呼ばれています。その歴史は古く、鎌倉時代にさかのぼります。2度にわたる「元寇」(1274年文永の役・1281年弘安の役)の後、鎌倉幕府は3度目の元の来襲に備えて、1282年に能登国から吉見氏を津和野へ入部させたのでした。そこで築城されたのが津和野城(当初は「三本松城」と呼ばれていました)なのです。ではなぜ、この地が選ばれたのでしょうか?
 「五畿七道」と呼ばれる古代の行政区分については、何度か取り上げたことがありますよね。東海市の「トマトジュースで乾杯条例」を解説した際にも出てきましたよ。現在の日本各地の「地方名」にも名残をとどめていますよね。今回注目するのはその中の「山陰道」です。山陰道にあたる旧国名を並べてみましょう。丹波・丹後・但馬・因幡・出雲・伯耆・石見・隠岐です。このうち隠岐は島になりますので、京都から陸続きの終結地は、石見ということになります。その先で接している国は周防と長門であり、どちらも山陽道に属しています。「畿内」とそれぞれの「国府」を結ぶ「道」として山陰道を考えた場合は、現在の国道9号がそれを継承するものといえます。京都府京都市から山陰地方を貫いて山口県下関市に至る国道です。国道4号(東京都中央区から青森県青森市)、国道1号(東京都中央区から大阪府大阪市)に続いて3番目に長い一般国道ですよ。「一般国道」という言い方が少し気になりますよね。法律に基づいた用語で「高速自動車国道以外の国道」という意味になります。道路法第5条で定められていますよ。単に「国道」と言った場合には、この「一般国道」を指すことが多いのですね。さて国道9号を地図上で確認してみると、山陰道の石見から、山陽道へとまさに入る地点が、津和野だということが分かります。鎌倉幕府が目をつけたのも、山陰と山陽をつなぐ交通の要所になるということが大きな理由の一つであったと考えられます。
 「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言を残したのは、明治の文豪森鴎外です。鴎外は現在の津和野町で森林太郎として生まれました。1862年のことで、ちょうど160年前になります。10歳で上京後、ドイツ語を学び、東京大学予科(今の高等学校)に最年少で入学を果たします。東京大学では医学を学び、卒業後は軍医となります。軍の衛生学の調査・研究のためにドイツに留学し、帰国後は、軍医としての仕事のかたわら、ドイツが舞台となる小説『舞姫』の執筆や、アンデルセンの『即興詩人』の翻訳、医学・文学の評論などを行い、明治を代表する知識人として活躍しました。北九州市の小倉で一時期を過ごしたほかは、現在の文京区の団子坂上にあった自宅である「観潮楼」(二階から品川の海が見えたことから、鴎外が名づけた)には家族とともに30年間、1922年に60歳で亡くなるまで暮らしていました。ちょうど100年前になりますね。それでも遺言からもわかるように、鴎外は終生ふるさと津和野のことは忘れていなかったのです。
 津和野町には鴎外が10歳まで過ごした生家が「森鴎外旧宅」として保存されていました。そこに隣接するかたちで鴎外の専門的な記念館として「森鴎外記念館」が開館しています。また、鴎外の終の棲家である「観潮楼」についても、その跡地には「文京区立森鴎外記念館」が開館していますよ。津和野町で生まれ、文京区でその生涯を閉じた文豪森鴎外をゆかりに、両自治体の間には「文化振興や災害応援に関する協定」が締結されています。文京区内には津和野町の東京事務所があり、また津和野町内には文京区との友好の証として「友好の森」が設置されているのですよ。
 そんな津和野町の「美しい森林(もり)づくり条例」です。平成28年に施行されています。前文に相当する部分が「津和野町森林憲章」と題されており、また、美しい森林の具体的な姿を、う(うまい森林)、つ(つながる森林)、く(くらしよい森林)、し(四季のある森林)、い(いきいきとした森林)、も(もうかる森林)、り(利用される森林)に分けて、解説がされているというユニークなものです。「かつて、津和野の森林は地域の生活を支える森林でした。森林は豊かな恵みをもたらし、豊かな水と川を育み、風雨を緩和して暮らしの安全を守り、多くの生きもののすみかとなり、また、人々の働く場や子どもの遊び場となり、そして、津和野らしい地域の景観を形作ってきました。」ではじまる「森林憲章」は、森林の有する公益的機能の重要性をうったえています。森林を保全することは、自然災害への抵抗力を高めることになり、また「緑のダム」と呼ばれる水源涵養機能の向上や、生物多様性の保全、二酸化炭素の吸収量増加などにもつながるのです。もちろん「国土の保全」という意味では、国としての仕事になりますが、津和野町のように「地域の基盤」としての「美しい森林」をつくるように行動しようという自治体は多いのです。
 こうした市町村による森林整備に必要な財源を確保するために創設されたのが、森林環境税と森林環境譲与税です。これは国の動きになります。「森林環境税及び森林環境譲与税に関する法律」によって定められました。令和6年1月1日に施行予定である森林環境税は、国税として年額1,000円が個人住民税に上乗せされて賦課徴収されることになります。森林環境譲与税は、森林環境税の収入額全額に相当する額が、市町村や都道府県に向けて国から譲与されます。国民から集められた税金が国を経て、各市町村等に回り、環境の維持や向上に役立てられることになるのです。「森林憲章」に掲げられているような「森林の有する公益的機能」への国民の理解が求められることになりますね。
 和歌山県太地町「くじらの博物館条例」

 今回紹介するのは和歌山県太地町で制定されている条例です。太地町は紀伊半島の南東部に位置していて熊野灘に面した漁港のまちです。海岸線はリアス式であり「天然の良港」として古くから発展してきました。漁業、特に捕鯨がさかんであることで全国的に、いや世界的に知られていますよ。日本の古式捕鯨発祥の地であると言われています。町の全域が海と那智勝浦町に囲まれていて、面積としては和歌山県で一番小さな自治体なのです。
 太地町は「くじらの町」を宣言し、町章にはクジラがデザインされています。「町章って何ですか?」という質問があるかもしれませんね。全国の自治体にはそれぞれ特徴を表現したシンボルマークがあるのです。入試問題でも取り上げられることがありますので、都道府県レベルのものは確認しておきましょうね。埼玉県の県章はカッコいいと評判ですよ。埼玉県名の由来となる幸魂(さきみたま)の「魂」は「玉」でもあり、古代人が装飾品としても身につけた勾玉(まがたま)を意味します。ですから、この勾玉を円形に16個配置した太陽を思わせるデザインが埼玉県の県章になっているのですね。閑話休題、くじらの町という話でした。太地町ではマスコットキャラクターもゴンドウクジラという徹底ぶりなのですよ。そんな太地町が、捕鯨400年の歴史と技術を後世に伝えることを目的に1969年(昭和44年)に開館したのが「くじらの博物館」なのです。江戸時代の文献にも捕鯨業で財をなした太地の鯨組主のことが描かれていますからね。400年はだてじゃありませんよ。井原西鶴の浮世草子『日本永代蔵』の中のお話なのです。クジラ突きの名人が登場し、銛で突いてしとめたクジラが「三十三尋二尺六寸」といいますから約60mという前代未聞の大きさであったと書かれています。「憂き世から浮世へ」と評される元禄文化を代表する文人としては、この井原西鶴の他にも、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門は覚えておきましょうね。
 さて世界一のスケールを誇るくじらの博物館なのですが、建物には大きなクジラの絵が描かれていて、クジラの生態や捕鯨に関する学習・教育資料など1000点に及ぶ貴重なものが展示されています。そしてこの太地町立くじらの博物館の施設運営を規定しているのが、今回取り上げました太地町立くじらの博物館条例になるのです。
 ここでもう一度、条例について確認をしておきましょう。日本には大きく分けて、法律と条例という二段階のルールが存在すると考えることができます。法律とは「唯一の立法機関」である国会によって決められたルールであり、条例は地方議会によって決められたルールです。でも「唯一の」とあるように、ルールは国会でしか決められないのではないでしょうか?では地方自治体が条例を制定できるのはなぜでしょう。その理由は憲法と地方自治法に求めることができます。憲法94条によれば、「地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる」とされています。ただしこの規定だけではその範囲が不明確なので、地方自治法14条1項において、「普通地方公共団体は、法令に違反しない限りにおいて第2条第2項の事務に関し、条例を制定することができる」と定められているのです。
 「法律の範囲内で」とありますね。では太地町立くじらの博物館条例の根拠法はなんでしょうか。それは博物館法になります。「社会教育法の精神に基き、博物館の設置及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もつて国民の教育、学術及び文化の発展に寄与すること」を目的とする法律です。この法律に従って博物館を運営するのですが、たとえば入館料をいくらにするのか法律に書かれているわけではありません。そのため地方自治体の事情に合わせてそれぞれが細かな規定をもりこんで策定するのが条例になるのですね。
 さて2019年の7月1日、日本は31年ぶりに商業捕鯨を再開させました。それに先立ち、日本がクジラの国際的な管理を行うIWC(国際捕鯨委員会)からの脱退を発表したのが2018年の暮れになります。商業捕鯨の再開にあたっては、日本の領海及び排他的経済水域に限定し、南極海・南半球では捕獲を行わないことを決め、鯨類の資源に悪影響を与えないようIWCで採択された方式により算出される捕獲枠の範囲内で行うこととしています。
 日本が商業捕鯨再開にこだわった理由の一つに「クジラは保護すべき動物で、食べるのは野蛮だ」とする欧米的な価値観への反発があります。太地町でも日本の捕鯨文化を批判してきた反捕鯨団体が様々な抗議行動をおこしてきたという経緯があるのです。それでも、そうした欧米的な考え方を受け入れてしまえば、マグロなどほかの水産資源利用にも影響が出ることになってしまう。そんな危機感が水産庁をはじめ日本政府にはあったのでしょう。「資源が豊富であれば、科学的根拠に基づき持続的に利用するのは、海に囲まれた日本の大原則だ」というのが政府の考えになります。
 脱退したとはいえ、国際的な海洋生物資源の管理に協力していくという日本の考えは変わりません。IWCにオブザーバーとして参加するなど、国際機関と連携しながら、科学的知見に基づく鯨類の資源管理に貢献する準備があることを主張しています。日本としては、科学的根拠に基づき水産資源を持続的に利用するという考え方が各国に共有され、次の世代に継承されていくことを期待しているのですね。
2022.06.27 かずの子条例
北海道留萌市「かずの子条例」

  今回紹介するのは北海道留萌市で制定された条例です。留萌市は北海道の北西部に位置し、ニシン漁とともに発展し、日本一の生産量を誇る「かずの子」をはじめとした水産加工業のまちです。おや、すでに今回の条例のテーマがとび出してきましたね!でもあわてずに。北海道の「北西部」といっても、北海道は広いですよね。頭の中に「このあたり」とイメージできますでしょうか?北緯は43度、東経は141度あたりになります、といっても位置は特定できませんか(笑)。水産加工業のまちというのですから海に面しているはずですよね。ではどの海でしょうか?北海道は三つの海に囲まれていますからね。日本海とオホーツク海と太平洋です。北西部というのですから当然、日本海に面したまちになりますよ。東西を流れる留萌川を中心に、西には日本海、南北には暑寒別天売焼尻国定公園が連なります。さて、この国定公園の名称を読むことができますでしょうか?「しょかんべつてうりやぎしりこくていこうえん」ですからね。難問クイズに登場しそうです。晴れた日には、遠く利尻の島影が夕陽の輝く日本海に浮かぶ姿が見られ、風光明媚なまちとしても有名なのですよ。
 お正月のおせち料理になくてはならないものとして「かずの子」はみなさんご存知ですよね。地方によっておせち料理の中身は違ったりするのですが、かずの子は関東でも関西でも共通に含まれる具材になります。「祝い肴(いわいざかな)」と呼ばれる、お祝いの席に欠かせない料理の一つなのです。おせち料理は、それぞれにおめでたい意味が込められていますが、この祝い肴は他の料理よりも先に食べるという習わしがあるくらい重要になります。その中身は、関東では「黒豆」「かずの子」「田作り」、関西では「黒豆もしくは田作り」「かずの子」「たたきごぼう」が選ばれます。いずれにせよ、かずの子は外せないのです!そのかずの子ですが、ニシンの卵ですからね。ニシンは漢字で「二親」と当てることができ、さらには非常に多くの卵を持つことから、「たくさんの子どもに恵まれますように」「我が家が代々栄えますように」という願いをこめておせち料理に使われるのです。
 おせち料理ですが、和食が世界遺産(ユネスコ無形文化遺産)に登録されるにあたって、きわめて重要な役割を果たしたことをご存知でしょうか。世界の各都市で和食がブームになっています。日本の食文化が世界的に認められている。だからこそ世界遺産に!という思いがあったのですが、そうした商業的な成功がかえって「無形文化遺産で保護する必要はないのではないか」という理屈にもつながってしまっていたのです。そのときに日本側が主張した例が「正月におせち料理を食べるという文化」だったのです。今現在、おせち料理を自分で作っている家庭はどんどん減ってきています。これが何世代かたつうちに、もしかしたらなくなってしまうかもしれません。日本の伝統的な食文化が失われつつあるという危機感を表明することで「これは確かに無形文化遺産として保護する必要がある」という専門家の意見を引き出したのでした!
 さて水産加工業のまち留萌市の原点は、明治時代にはじまったニシン漁になります。ここで問題です。ニシン漁は漁業の種類でいえば沿岸漁業・沖合漁業・遠洋漁業のどれにあたるでしょうか?正解は沿岸漁業です。イワシ・サンマ・サバ・アジといった漁獲物が中心の沖合漁業とも、マグロやカツオといった漁獲物が中心の遠洋漁業とも違って、そもそもニシンは産卵のために沿岸の浅いところに大群で押し寄せてくるのです。漁獲されたニシンの大部分は肥料としての漁粕、保存食品としての干しかずの子、身欠ニシンなどに加工され、北前船によって本州方面へ出荷されていました。以後昭和29年に浜からニシンが消えてしまうまで長く続くことになります。「消えてしまった?」そう、まさにニシンは消えたように姿を見せなくなりました。その理由にはいくつかの説があり要因は複合的です。けれども要因の一つとして間違いなく挙げられるのが乱獲による減少です。産卵のために日本海にやってきたニシンを獲れるだけ獲っていたのですから。漁獲制限もありませんでした。ニシンが子孫を残せないほど減少してしまったということでしょう。ではニシンが獲れなくなってからかずの子はどうしたのでしょう。留萌市ではいち早く、ロシア、カナダ、アメリカなどから冷凍ニシンや原卵を輸入し、伝統あるニシン加工の技術を活かす方向にかじを切ったのでした。その結果「全国一の生産量と品質を誇る留萌のかずの子」は維持されることになったのです。
 そんな留萌市で議員提出議案として出された「かずの子条例」が、平成28年9月に可決されました。かずの子の消費拡大と地産地消の推進、地域経済の活性化、郷土愛の醸成などを目的としたもので、おせち料理だけでなくふだんから地元の味に親しんでもらおうと、学校給食にもかずの子が提供されるようになりました。漁業を通じた地域の再生を目指しているのです。
かつて世界一を誇った我が国の漁業生産量は、今やピーク時の半分以下に減少しています。そうした中、国でも2018年の末に、70年ぶりとなる魚漁法の改正が実現しました。漁業は世界的には成長産業であるといわれています。にもかかわらず日本の漁業は停滞傾向にあるのです。可決された改正漁業法を通じて、早獲り競争で量を追い求める漁業から質を求める資源管理型漁業へと日本の漁業を転換し、漁業資源の回復や漁業関係者の収益改善を図り、成長戦略の一環として日本の漁業の再生を目指していくことになりましたよ
2022.05.16 ごみ屋敷条例
 東京都足立区「ごみ屋敷条例」

 今回紹介するのは東京都足立区で制定された条例です。足立区は東京23区の最北端に位置していますよ。その先は埼玉県ですからね。南側の隣接区は西から順に、北区・荒川区・墨田区・葛飾区になります。荒川や隅田川をはじめ、中川・綾瀬川・毛長川といった多くの川が区内を流れていますが、そうした川の流れに囲まれている区でもあります。当然、平坦な地形が特徴になります。かつては海辺に面した湿原や荒地だった土地で、「あだち」という名前の由来も、葦が多く生えていて「葦立(あしだち)」と言われたからだという説があります。特に荒川と隅田川にはさまれている千住地区は、海抜0m地帯になっています。海抜0m地帯というのは、満潮時の海水の水面よりも標高が低いエリアのことです。日本においては主に、東京湾や伊勢湾、大阪湾などの海岸付近や河川の周辺に広がっています。お気づきですか?それぞれ京浜工業地帯・中京工業地帯・阪神工業地帯の位置にありますよ。海に面しているため原料や製品の輸送にも便利ですよね。そして広い平地は工業用地としてもふさわしいわけですから。埋立てがさらに進み、高度経済成長期には、こうした臨海部に工業地帯が発展していったのでした。
交通の便もよく、人口も集中している海抜0m地帯ですが、災害リスクがともないます。洪水や高潮、地震による津波などの被害が大きくなるおそれがあるのです。ですから住民の皆さんは、浸水した時に想定される水深を知っておかなくてはなりません。どこに逃げると大丈夫なのかを確認するのです。そのために自治体はハザードマップ(災害被害の想定範囲などを示した地図)を作成しています。
 「ここにいてはダメです」と表紙に書かれた水害ハザードマップを作成した江戸川区が話題になりました。荒川と江戸川が氾濫すると区内のほぼ全域が浸水するという最悪の想定が示され、被害の発生前に区の外に避難をするよう区民に求めたのです。戸惑いの声があがる一方で、被害の大きさを率直に伝える内容を評価する声も多くありました。
 さて足立区の千住地区ですが、発展の歴史は江戸時代にさかのぼります。奥州道中・日光道中の宿場町が千住だったからですね。江戸四宿はご存知ですよね?東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州道中の内藤新宿、そして千住宿の四つです。五街道の各々について、起点となる日本橋から「最も近い宿場町」にあたります。江戸の出入り口として重要な役割を担ってきたのです。ちなみに松尾芭蕉が『奥の細道』の旅をスタートさせた地点が千住です。庵のあった深川から船に乗って隅田川を北上し、千住で船を降りて旅の始まりの句を詠んだとされています。「行春(ゆくはる)や 鳥啼(なき) 魚の目は泪(なみだ)」ですよね。ところがこの「千住」が、現在の北千住にあたるのか南千住にあたるのか、隅田川のどちら岸に芭蕉が降り立ったのかという記録が残っていないのです。ですから、現在でも、芭蕉が『奥の細道』の旅を始めた地点をめぐって、北千住の足立区と南千住の荒川区の間で、熱いバトルが繰り広げられています。どちらもゆずらないのです。
 そんな足立区ですが、平成20年から進めている運動があります。「美しいまち」を印象づけることで犯罪を抑止するという独自の取り組み「ビューティフル・ウィンドウズ運動」です。なぜ「ウインドウズ(窓)」なのかといいますと、「割れ窓理論」に基づいているからです。「1枚の割れたガラスを放置すると、いずれ街全体が荒れて、犯罪が増加してしまう」というアメリカの犯罪学者の理論です。逆に、公園や地域の清掃活動、落書きの消去作業などによって、身のまわりの小さな乱れにいち早く対応すれば、将来発生するかもしれない犯罪を未然に防ぐ効果があるとも考えられています。ニューヨーク市で実践されて大きな成果をあげたことで有名になりました。足立区が、このビューティフル・ウィンドウズ運動の一環として取り組んだのが、家の中や外にもごみを積み上げてそのままにしている「ごみ屋敷」への対策事業なのです。近隣住民に悪影響を及ぼしているごみ屋敷問題の解決に向けて「足立区生活環境の保全に関する条例」が施行されたのは、平成25年の1月のことでした。適正に管理されていない(ごみを放置している)土地や建物の所有者に対して調査を行ったり、近隣に被害を及ぼしている場合には指導や勧告、命令、行政代執行(国や自治体などの行政機関の命令に従わない人に対し、その本人に代わって行政機関側が強制的に撤去や排除をすること)まで行えることにするとともに、本人による問題解消が困難な場合には積極的に支援を行うことも規定しているのがこの条例の特徴です。
 「ごみを片付けることだけに重点を置くのではなく、相手の悩みに向き合って状況を十分理解した上で、寄りそった解決を図っていくことが何よりも大事だと感じています」とおっしゃるのは、足立区の生活環境調整担当課長さんです。「ごみを溜め込んだり、放置している人は、生活困窮やセルフネグレクト(日常生活を営もうとする意欲や生活能力を喪失し、自己の安全や健康が脅かされる状態となること)、孤立などの問題を抱えている場合が少なくありません。その原因を考えて、医療・福祉・介護・生活支援などの必要な機関やサービスにつないで生活再建にかかわっていく必要もあります。<お節介行政>といわれるところまで立ち入らないと前に進んでいきません」と、説明してくださいました。単にごみを片付けるだけでなく、その背景や原因なども踏まえて、福祉や医療、生活支援などの部署とも連携して解決に取り組んでいるのですね。この取り組みは「足立区モデル」と呼ばれ、全国の自治体が参考にしていますよ。
 熊本県人吉市「ポケットに夢がいっぱい条例」

 今回ご紹介するのは熊本県人吉市で制定された条例です。人吉市は熊本県の最南端にある市になります。ですから南西は鹿児島県の伊佐市に接していて、南東は宮崎県のえびの市に接しています。九州山地と国見山地に囲まれた人吉盆地の中に位置していますよ。地図帳で確認してみてください!四方を山々に囲まれている様子がよくわかります。当然、内陸性気候になります。昼夜の寒暖の差が激しく、そのため秋から春にかけて盆地全体がすっぽりと霧に覆われてしまうことも多いのです。山の上から眺めると美しい雲海となります。この雲海のビューポイントとして知られているのがアポロ峠です。アポロとはあの史上初めて人類を月に着陸させることに成功したアメリカの有人宇宙船アポロ11号のことです。その名を冠した峠が、なぜ熊本県の人吉市に存在するかというと、なんでも峠を越える林道を造成するためにブルドーザーが到着したのが奇しくもアポロの月面着陸と同時期だったからだとのこと。当時の盛り上がりが伝わってくるエピソードですね。1969年のことになります。
 地理の知識としては人吉盆地を流れる川が有名ですよね。最上川・富士川とあわせて日本三大急流として名高い球磨川です。ここの川下りはアドベンチャー感覚で楽しいですよ!速い流れを木舟で下るのはスリル満点です。また30センチを超える「尺アユ」が育つことでも知られています。球磨川は九州山地に源を発し、人吉盆地・八代平野を形成して、八代海に出ます。地理の学習で川を覚えるときには「源流がある山」「途中で形成される盆地・平野」「流れ出る海」をセットにして頭に入れると効果的です。残りの三大急流で確認してみましょう。まず山形県を流れる最上川ですが、福島県との境にある吾妻山に源を発し、米沢盆地・山形盆地・新庄盆地・庄内平野を形成して、日本海に出ます。盆地が三つもありますよ!覚え方は「小心者はや~よ!」で河口から戻りましょう。庄(しょう)・新(しん)・山(や)・米(よ)です。江戸時代には舟運を使って、米や紅花といった産物が河口の酒田港へ集積され、そこから北前船による東廻り航路・西廻り航路で、上方や江戸へと運ばれましたよ。「五月雨を集めて早し最上川」と詠んだのは松尾芭蕉ですが、最上川を下り庄内に入った芭蕉は、酒田で生まれて初めて日本海を見たのだそうです。次に長野県・山梨県・静岡県を流れる富士川ですが、赤石山脈の北端に位置する鋸岳に源を発し、甲府盆地を形成して、駿河湾に出ます。河口の扇状三角州によって形成された砂丘海岸が田子ノ浦ですよ。百人一首にも登場しますね。「田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」です。歴史では「富士川の戦い」で源平の合戦の舞台となりましたね。『平家物語』には、水鳥の羽音に驚き慌てて逃げ去る平家軍が描かれていますよ。
 さて、球磨川が流れる人吉市の条例です。正式な名称は「子どもたちのポケットに夢がいっぱい、そんな笑顔を忘れない古都人吉応援団条例」になります。長い名前ですが、何を目的とした条例なのでしょうか?前文で確認してみましょう。
 「人吉をふるさとだと思っていただいているすべての方々に伝えたい。ふるさとはあなたの思い出のとおり、今も青い山々と翠(みどり)なす球磨川のきらめきの中で春夏秋冬を優しく刻んでいます。あの春の日、大きな夢と少しの不安を抱いて旅立った人吉駅のプラットホームは、昔と同じ官製(昭和)の匂いがかすかに残ったまま新生SLを迎え、秋空に響き渡るおくんち祭りの青井さんは国宝になりました。線路の遙か向こうに憧れを追いかけていたあの頃、小さな幸せが子どもたちのポケットからこぼれ落ちそうで、また、悲しみさえも持ち寄り、支え合う場所があったような気がします。今、人吉は笑顔のまちづくりに取り組んでいます。時代が変わっても誠実に生きることが報われるまちであることを目指して。いつまでも人吉の応援団としてお見守りください。」
 「青井さん」という個人名が登場して驚きますが、これは人吉駅近くの青井阿蘇神社のことですからね。さて条例の目的は理解できましたか?ピンとこない?では文章読解のセオリーで、最初と最後をまとめてみましょう。「人吉をふるさとだと思っていただいているすべての方々に」「いつまでも人吉の応援団としてお見守りください」という要約が可能ですね。実はこれ「あの春の日、大きな夢と少しの不安を抱いて」人吉駅から旅立った人たちに向けて「ふるさと納税」を呼びかけている内容なのです。
 子どもの頃から医療や教育といった行政サービスをふるさとの自治体から受けてきたのに、いざ住民税を納める立場になったときには、都会に生活の場を移してしまっているというケースは多いのです。都会の自治体は税収を得ますが、生まれ育った故郷の自治体には税収が入らないという結果を招くことになります。そこで、今は都会に住んでいても、自分を育んでくれた「ふるさと」に、自分の意思で、いくらかでも納税できる制度があってもよいのではないか!という問題提起から生まれたのが「ふるさと納税」制度なのです。「納税」という言葉がついていますが、実際には自治体への「寄附」になります。人吉市の条例は、ふるさと納税の根拠となる地方税法等改正案が国会で成立した平成20年度に、制定・施行されたのでした。
 ふるさと納税に関しては、地方行財政を所管する総務省が「過度な返礼品」を問題視して、制度の見直しを行っていますが、趣旨そのものは尊重されています。令和3年度の「ふるさと納税」による特別区民税の「流出」額は、23区合計で実に約531億円に達する見込みであり、看過できない状況です。特別区議会議長会として総務大臣に直接、改善の申し入れを行ったところですが、大臣からは「ふるさとを思う気持ち、地方を応援する制度であることをご理解いただきたい」との話が出ました。金子総務大臣の出身高校が人吉市にある熊本県立人吉高等学校であるということには、要望書を提出した後に気づいたのでした。
 福島県富岡町「震災遺産保全条例」

 今回ご紹介するのは福島県富岡町(とみおかまち)で制定された条例になります。富岡町は福島県の東部に位置し、北は大熊町、西は川内村、南は楢葉町とそれぞれ境を接し、阿武隈高地と太平洋の間に広がる面積68.39㎢の町になります。
 福島県は奥羽山脈と阿武隈高地という二つの南北に連なる山系によって縦に線が引かれるかたちで三つの地域に区分されており、太平洋側の東から順に「浜通り」・「中通り」・「会津」と呼ばれています。それぞれに特徴のある地域色を出していますよ。気候も大きく異なっています。浜通りは当然太平洋側の気候であり、会津は日本海側の気候ですから。浜通りで桜が満開という時期に、会津ではまだ雪が残っているのが普通という状況ですからね。
 では問題です。冷害をおこすのは主に三つのうちのどの地域でしょうか?もちろん正解は浜通りですよ。雪や冬の寒さと冷害は関係ありませんからね。春から夏にかけて吹く冷たく湿った北東よりの風、すなわち「やませ」の影響で日照不足と低温から水稲の作柄不良をおこすのでしたね。寒流である親潮の上を吹き渡ってくる風ですから太平洋側でおこる現象になります。
 富岡町はどこの地域かといえば、もちろん浜通りに位置しています。明治維新で江戸時代の藩が廃止されて県が生まれたのはご存知ですよね。1871年の廃藩置県です。江戸時代に300近くあった藩が、県として整理されていくのですから大変です。統廃合が繰り返されることになります。会津が若松県、中通りが福島県、浜通りが磐前(いわさき)県と呼ばれていたこともありました。結局その三つが合併して生まれたのが現在の福島県なのです。1876年のことでした。ところが細かく見ると、その浜通りも北と南で歴史的風土が異なるといいます。戦国時代に北を相馬氏が、南を岩城氏が領有し、ちょうどその境目にある富岡では領有権争いが激しかったというのです。ですから富岡の「夜ノ森」や「小良ヶ浜」という地名は、「余の森」(自分の森)「おらが浜」(自分の浜)だとお互いに主張して、領有地の境界線となったことに由来すると言われています。
 その夜ノ森ですが、桜並木で全国的に有名なのです。最初に植えられたのは戊辰戦争後だと言いますから歴史は長いですよ。樹齢100年を超えたソメイヨシノを含め、約1500本の桜が道路の両側に植えられ全長約2.5㎞の桜のトンネルを形成しています。毎年4月に「夜ノ森桜祭」が開催され、全国各地からのお花見客によって賑わい、夜には桜がライトアップされていました。夜ノ森という名前の幻想的なイメージにぴったりのイベントなのでした。12年前までは…。東日本大震災の発生で町の様子は一変しました。東京電力福島第一原子力発電所事故に伴い避難指示が出され、夜ノ森地区は帰還困難区域に指定されることになったのです。富岡町内の避難指示が解除されたのは、今から5年前、平成29年の4月になってからのことでした。そしてそのタイミングで施行されたのが、全国で初めてとなる「震災遺産保全条例」でした。震災や原発事故の教訓を受け継ぎ、町の「記録」「記憶」を守ることで住民の帰還につなげたいとの思いがあったのです。条例は全7条からなり、「地域や住民に及ぼした影響や教訓の発信」「風化の防止」「町の再生・復興に資する」などを目的としています。震災遺産にあたるものとして、建造物や標識、印刷物、衣服、口述記録などをはじめ、震災や原発事故を伝えることができるものとして幅広く対象物が掲げられています。救援に向かい警察官が犠牲になった福島県警のパトカー、震災が発生した午後2時46分すぎで針が止まったままになった帰還困難区域の集会所の時計、JR富岡駅近くで津波にのまれた時計、住民が掲げた「富岡は負けん!」の横断幕…。「震災や原発事故で、富岡町の息づかいは突然止まりました。でも当時の記録、記憶を残すこと、かつてのふるさとを感じる『足跡』を広く伝えることが、住民の帰還にもつながることになると思います」と、富岡町の職員の方はおっしゃいます。
 「災害の教訓を活かそう」という取り組みは確実に広がっています。国土地理院は新しく「自然災害伝承碑」の地図記号をつくり、掲載することを決めました。新しい地図記号ができたのは、平成18年の「風車」と「老人ホーム」以来13年ぶりのこととなります。自然災害伝承碑とは、過去に起きた自然災害の規模や被害の情報を伝える石碑やモニュメントのことです。国土地理院では、自然災害伝承碑の情報を地方公共団体と連携して収集を開始しています。集めた情報は、国土地理院のウェブ地図「地理院地図」や2万5千分1地形図に掲載されることになります。先人たちが現代に伝える災害の教訓を正しく知ることが、災害への備えを充実させ、災害による被害の軽減に貢献するものと考えているそうです。
 
 徳島県三好市「エシカル消費共同宣言」

 今回紹介するのは徳島県三好市で「採択」された共同宣言です。条例を定める場合は「制定」という言葉を使うのですが、ここでは「採択」になっています。「採択」というのは、「提起された内容は妥当であり、会議体として賛同する」という意思決定を示しているのです。昨年の6月に開催された主要7カ国首脳会議(G7サミット)でも共同宣言が採択されていますよ。「新型コロナウイルスに打ち勝つ世界の団結の象徴として、安全・安心な形で2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会を開催することに対する我々の支持を改めて表明する」という言葉が含まれていましたね。実は三好市でも「自治体サミット」(いくつかの自治体が集まって行う首脳会議)が開催されていて、そこで採択された共同宣言を取り上げてみようと思うのです。
 三好市は徳島県の西部に位置しており、北は香川県、西は愛媛県、南は高知県に接しています。四国4県の全てに接しているとも言え、四国のほぼ中央にあることがイメージできるでしょうか。市の90%近くは山地によって構成されていますが、その中央部を吉野川が横切っています。吉野川は別名「四国三郎」と呼ばれ、全長194㎞で、こちらも四国4県の全てを流域に含むという特徴があります。四国を西から東へと流れ、紀伊水道へとまっすぐに注いでいく吉野川ですが、一部だけ南北に流れているところがあるのです。そこがちょうど三好市にあたり、四国山地を横切るかたちとなり深い渓谷が形成されています。なかでも切り立った崖が圧倒的な迫力でせまってくる景観を誇るエリアは「大歩危・小歩危」と呼ばれ、国の天然記念物・名勝にも指定されていますよ。
 吉野川は香川県にも流域が広がっているといいました。しかし、徳島県と香川県の境界には讃岐山脈が位置しており1000m級の山々が連なっています。2億年の時間をかけて四国山地を横切ったといわれる吉野川ですが、讃岐山脈を越えることはありませんでした。ではどうして吉野川が香川県と関係するのでしょうか?その答えが「吉野川総合開発事業」になります。香川県は年間降雨量が少なく大きな河川もないため、旱魃による水不足は深刻な問題で、古来より多くのため池が作られてきました。日本一大きなため池である満濃池(空海が整備したことでも有名ですよね)もその一つになります。その一方で、讃岐山脈をはさんだ徳島県の吉野川周辺では、大きな洪水による被害に苦しめられてきました。そこで、吉野川流域の安全と水の安定供給を目的とした吉野川総合開発事業が計画され、早明浦ダム、池田ダムとともに計画の一環として香川用水が建設されることになったのです。早明浦ダムに蓄えられている水が、吉野川を流下し、池田ダムを経て、讃岐山脈を貫いている導水トンネルを通って、香川県側に農業用水・工業用水・水道用水として供給されるのです。その香川用水の取水工と呼ばれる水の取り入れ口があるのが三好市なのですよ。
 さて、三好市という名前の由来はどこにあるのでしょうか。かつて徳島県は阿波国とよばれました。これは律令制の行政区分である「国」にあたりますが、この中を「郡」、さらには「里」と分けていくのが「国郡里制」という古代の地方行政のあり方でした。それぞれに「国司」「郡司」「里長」が置かれましたよね。阿波国の中にあった郡のひとつが「三好郡」であり、これが三好市の由来ともなっています。16世紀の後半には、三好郡を拠点にした三好氏が短期間ながら室町幕府を支配したことがありますよ。織田信長が活躍する少し前の話です。一時は有力な戦国大名でした。分国法も制定していましたよ。戦国大名が領国(分国)を統治するために定めた法令や規則ですよね。「喧嘩両成敗」を採用した武田氏の「信玄家法」や今川氏の「今川仮名目録」が有名です。三好氏の分国法は「新加制式」といいますが、これは大学受験レベルの知識ですので覚えなくても大丈夫です。
 そんな三好市で、平成30年の7月に「採択」されたのが「エシカル消費自治体サミット共同宣言」になります。「エシカル」というのは英語でethical。訳すと「倫理的な」になります。「倫理」というのは「社会生活で人が守るべき道」という意味です。共同宣言にはこうあります。「私たちは、愛する地球から世界と未来を見つめ、公正で持続可能な社会づくりのために一人一人ができることを考え、語り合いながら行動します。そして、誰一人取り残さない世界の実現を目指し、多様性を尊重し、協働の輪を広げながら主体的にエシカル消費を推進することを宣言します」と。私たちは、日々の暮らしの中で、モノを買ったり、食べたり、使ったりと、様々な「消費」を行っています。そうしたひとり一人の行動において、「何を買うか・買わないか」といった選択を意識的に行うことで、環境や人権といった社会的な課題の解決につなげていこうというのが「エシカル(倫理的な)消費」なのです。フェアトレード商品(適正な価格で継続的に取引された途上国の原料や製品を使った商品)を選んだり、エコ商品(リサイクル素材を使ったものや資源保護などに関する認証がある商品)を買ったりすることも、実践の一つになります。「買い物で未来を変えられる」(政府広報)というのがエシカル消費のポイントですからね。国においても、「グリーン購入法」を定めて、調達(国がする買い物ですね)の際には環境への負荷ができるだけ少ない製品を選ぶこと、としていますよ。小学生の皆さんにも「何ができるか?」という発想が求められますね。エシカルな製品の目印として様々な「認証ラベル」がありますので(FSC認証、MSC認証、GAP認証など)調べてみるのもいいでしょう。
 滋賀県草津市「愛する地球条例」

 今回ご紹介するのは滋賀県草津市で制定された条例になります。草津と聞くと「温泉」と反応してしまう生徒が多いのはしかたがないことでしょうね。「日本三名泉」というくくりで古くは室町時代から書物にも記されているのは、兵庫県の有馬温泉と岐阜県の下呂温泉と群馬県の草津温泉ですからね。とりわけ「草津よいとこ一度はおいで」ではじまる民謡が、「湯もみ」(高温の湯を板でかき回して適温にする動作)の際に声を合わせて歌われることもあり、草津の湯の知名度は抜群です。それでも中学受験生ともなれば、滋賀県の草津についても、その歴史的な意味について理解しておかなくてはならないですよ。
 江戸幕府が整備した五街道は全部言えますよね?東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中の五つ。その全ての起点となるのが江戸の日本橋です。現在の東京都中央区になります。国の重要文化財にも指定されている日本橋周辺ですが、上空を首都高速道路に覆われていて、せっかくの景観が損なわれていると言われていました。しかしいよいよ、首都高を地下に移して日本橋周辺をもう一度「首都の顔」として再生させよう!というプロジェクトが動き始めましたよ。起点はどれも日本橋だという五街道ですが、終点はそれぞれ違うのかといえば、二つの街道は共通しています。東海道と中山道です。南回りで太平洋沿岸経由の東海道、北回りで内陸経由の中山道、ともに江戸と京都を結んでいます。現在の都道府県で通過経路を示してみると次のようになりますよ。東海道は、東京都・神奈川県・静岡県・愛知県・三重県・滋賀県・京都府。中山道は、東京都・埼玉県・群馬県・長野県・岐阜県・滋賀県・京都府。お気づきでしょうか?京都に到着する前に、滋賀で合流していることに!滋賀の草津宿こそ、東海道と中山道の合流地点なのです。
 日本橋から同じく京都に向かう街道でありながら、東海道と中山道では全く反対の方向に足を踏み出すことになります。現在の国道でいえば、東海道は国道1号を、中山道は国道17号を進むわけですからね。それぞれの最初の宿場が品川宿と板橋宿になることも覚えておきましょう。そして草津宿は、東海道の52番目、中山道の68番目に位置する宿場となるのです。ちなみに国道17号は東京大学の前を通るのですが、その区間は本郷通りと呼ばれています。加賀百万石で有名な前田家の金沢藩は参勤交代に際して中山道を利用していました。ですから、金沢藩の江戸上屋敷は本郷にあり、下屋敷は板橋にあったのです。今でも残る本郷東大の赤門(これも重要文化財です)は、その上屋敷の門だったのですよ。
 さてさて、滋賀県について語るならば、面積の約六分の一を占める琵琶湖の存在を忘れることはできません。貯水量は27・5㎦にもなります。琵琶湖に流れ込む川は多数(大小合わせて460本)ありますが、流れ出る川はただ一つ。瀬田川です。その水は京都では宇治川に、大阪では淀川となって流れていきます。滋賀県だけではなく京都府・大阪府・兵庫県でも利用される水道用水として、近畿圏の約1,400万人の貴重な水資源となっているのです。このことを指して琵琶湖を「近畿の水がめ」と表現することがあるのですが、当の滋賀県ではこの「水がめ」という言い方をしりぞけています。いわく「琵琶湖はただ水を貯める機能しかもたない甕(かめ)ではない。琵琶湖の周りや流入河川域の人々の努力により水質や水量が保たれており、大勢の人々が琵琶湖に強い思い入れを持ち、琵琶湖に依って生活している」と。もっともな話です。かつて琵琶湖は赤潮に悩まされていました。洗濯用の合成洗剤に含まれていたリン酸塩が、生活排水とともに琵琶湖に流れ込み、富栄養化をおこしてプランクトンが異常発生したのでした。そこで1979年に滋賀県では「琵琶湖富栄養化防止条例」を制定しました。これはリンを含む家庭用の合成洗剤について滋賀県内では使用することも、販売することも、贈与することも禁止した画期的なものでした。全国的にも大きな波紋を投げかけ、洗剤メーカーはすぐに無リン洗剤を開発することになりました。現在日本で販売されている家庭用洗剤はほとんど全て、リン酸塩を含まない無リン洗剤になっています。
 そんな環境問題にはとりわけ熱心な滋賀県は草津市で、平成19年に制定されたのが「愛する地球のために約束する草津市条例」です。前文は次のようにはじまります。「春、子どもたちが入学式を迎える頃、市内には桜の花はどこにも咲いていません。夏、せみの鳴き声が、変わりました。秋、琵琶湖のまわりでは、お米の収穫量が減りました。冬、琵琶湖に渡り鳥が、やってこなくなりました。私たちがこのまま今までのような生活を続けていくかぎり、このような光景を目にすることになるでしょう。今こそ、私たち人間は、地球上の生あるすべての中の一員として、限りなく持続可能な共生を続けていくために、何を行わなければならないのか真剣に考え、行動することが求められています。」なんと詩的で格調の高い宣言でしょうか!
 1997年に世界中から161もの国々が参加して開催された地球温暖化防止京都会議。温室効果ガスの排出削減目標などが定められた京都議定書が採択されたことから、京都市は独自の取り組みとして「京都市地球温暖化対策条例」を平成16年に制定しました。これを契機に、全国の地方自治体で「地球温暖化対策条例」が制定されるようになったのですが、環境問題の先進県である滋賀県の草津市で、温暖化を防いで愛する地球を守ろう!という条例が施行されたのは当然の流れだったといえるでしょう。
 静岡県静岡市「めざぜ茶どころ日本一条例」

 「お茶といえばどの都道府県をイメージしますか?」というアンケート調査がありました。その結果、実に八割以上の支持を集めた静岡県が、圧倒的な一位となりました。ちなみに二位は京都府、三位は鹿児島県でした。「京都府はわかります。お茶のテレビCMでも登場しますから。でも、どうして鹿児島県が上位にくるのでしょうか?」なんて中学受験生が言わないでくださいよ。茶葉の生産量のランキングでいえば、やはり全国生産量の約四割を占める静岡県が一位なのですが、二位は鹿児島県ですからね。この上位二県で実に七割を占めます。さらにいえば、茶葉の生産ランキングを市町村別にまで細分化すると、なんと一位に輝くのは鹿児島県の南九州市になるのです。「知覧茶(ちらんちゃ)」という南九州市のお茶のブランドは全国に浸透しつつありますからね。お茶をモチーフにしたご当地キャラクターの「お茶むらい」(ちょんまげがお茶の葉っぱになったお侍さん)も活躍中ですよ。
 そんな状況の中、静岡県の静岡市では「静岡市のお茶に関する伝統、文化、産業等を守り、静岡市を日本一の茶どころとして育て次代に継承していくため」平成21年4月に「めざせ茶どころ日本一条例」が制定されました。この条例に基づいて「茶どころ日本一計画」が立てられて様々な施策を行います。100年後の将来像として「世界中のだれもがあこがれるお茶のまち」を目指しています。百年計画ですよ!静岡のお茶の情報を広く発信し、日本一の茶どころにふさわしいまちづくりを行い、お茶を中心とした交流を促進するとしています。
 ここで注意してほしいのが「めざせ日本一」という点です。今のところ日本一ではないと認めているともいえます。先ほど市町村別では鹿児島県の南九州市が一位だという話をしました。では続く順位に登場するのはどこの自治体でしょうか?二位は牧之原市、三位は島田市となります。いずれも静岡県にあるのですが、肝心の静岡市が見当たりません。生産地というのは、やはり茶葉の育成に適した地理的な条件があるのです。南九州はシラス台地という特徴があります。水はけが良く水持ちが悪いので、あまり稲作には向かないのでしたね。でもサツマイモやお茶の栽培には適しています。そして牧之原市・島田市はともに牧ノ原台地を擁しています。ここには総面積5,000ヘクタールという日本一の広さを誇る牧之原大茶園がありますからね。牧ノ原台地も稲作には不向きな土地でした。明治維新があり、それまで禄(ろく:給料のこと)をもらっていた武士たちが職を失うことになり、そうした無禄士族への対策として、入植をうながし開拓作業が始められたのが牧ノ原台地だったのです。そこに大井川の川越制度廃止で職を失った川越人足たちも加わり、一丸となって開墾が進められました。茶樹を植える事が推奨されたため、現在のような茶畑が広がる製茶地帯になったのでした。島田市の茶園の一角にある牧之原公園には、日本の歴史上お茶に関する重要な人物の像がたてられています。さて、その人物とは誰でしょうか?正解は平安時代末期から鎌倉時代の初期に活躍した栄西です。臨済宗の開祖として知られている栄西は、宋に渡って禅宗を学んでいる際に飲茶が行われているのを見聞して、帰国後に日本初のお茶の専門書「茶は養生の仙薬なり」ではじまる『喫茶養生記』を著しました。これによって禅宗とともに喫茶の習慣が武士階級に広がることとなったのですね。
 話をもとに戻して静岡市です。「めざせ日本一!」という発想はどこからきたのでしょうか。実はちゃんと静岡市にもお茶にまつわる日本一があります。それは生産量ではなく消費量です。「緑茶」や「茶類」の一世帯当たりの年間支出金額が日本一なのです!生産量の調査は作物統計調査とよばれ農林水産省の担当です。それに対して消費量の調査は家計調査とよばれ総務省が担当します。この家計調査は毎年注目されていますよね。特に「年間餃子消費量」(一世帯が年間どれだけの量の餃子を購入したか)を激しく争っている栃木県宇都宮市と静岡県浜松市は、もはや宿命のライバルといえるでしょう。
 消費量で日本一の静岡市が安心していられないのは、他にもお茶にまつわる条例を制定して様々な施策を打ってくる自治体が次々と現れるからでもあります。お茶といえば?のイメージランキング二位である京都府の宇治市では「宇治茶おもてなし条例」を制定して、お茶をおもてなしに使うことを奨励することで、宇治茶の普及などを目指しています。また大阪府の堺市では、お茶の生産でも消費でもない新しい切り口を示しました。市長は言います「茶の湯は単にお茶をいれて飲むだけでなく、美術、工芸、書画、生け花、お菓子まで、幅広い分野における総合芸術である。そうしたものを生んだ利休のふるさととしての魅力の発信を強化していきたい」と。名付けて「茶の湯条例」の制定を目指しています。安土桃山時代の茶人で、わび茶の大成者として知られる千利休の出身地の堺市が、茶の湯を通じておもてなしの心を広げる条例の制定を目指しているのです。静岡市もうかうかしていられませんよね。