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2018.01.07 津々浦々
 「津々浦々」

 「日本全国いたる所」という意味を表す四字熟語です。「日本全国津々浦々にまで浸透して…」などといった用法でお馴染みですよね。「津」は、海岸・河岸の船舶が来着するところを表し、港を意味する言葉です。「浦」は、海などの比較的小さな湾入部を表し、入り江や浜辺を意味します。ですから、どちらも海岸部分を指しているのですが、交易の中心である「港=都会」から、のどかな雰囲気の「入り江=田舎」まで、あらゆる場所でという意味合いが込められることになります。日本は四方を海に囲まれた島国です。津々浦々という表現は、そんな日本の地理的環境をよく表していますよね。
 この津々浦々という四字熟語を見ると、私はある人物のことを思い浮かべてしまうのです。「寛政(江戸時代の元号:1789~1800)の三奇人」と呼ばれたうちの一人なのですが、江戸時代の寛政期に活躍したその人の名は、林子平といいます。「奇人」というのは「奇妙な」「奇怪な」という意味ばかりではなく、「優れた」というニュアンスで使われる場合もあるのです。あとの二人は?と気になる方もいらっしゃるでしょうがここではスルーします(笑)。
 時は江戸。鎖国をしいている日本は太平の眠りの中にありました。海に囲まれている日本では、外国の侵攻を直接受けることもめったにありませんから。その認識の甘さを突いたのが、林子平の著書『海国兵談』です。「江戸の日本橋より唐、オランダまで境なしの水路なり!」と喝破しました。要するに、江戸の中心である日本橋のたもとの水面は遠くヨーロッパまで続いているのだから、どうやって国を守っていくかという議論が必要である!という話です。江戸湾岸防備の緊急性を説いたのは林子平が最初です。ですが、そのことで幕府に睨まれてしまいます。寛政期といえば「寛政の改革」でおなじみの、老中松平定信ですよね。「政治のことに下の人間は口出しするな!」と林子平は弾圧を受けます。子平は失意のうちに死去するのですが、皮肉なことに彼が処罰された直後にロシア船が根室に来航し、幕府は海防の策定に追われることになるのでした。
 四方を海に囲まれた日本という国のあり方は、現在も問われ続けています。あらためて認識して、『海国兵談』の意義を考えてみたいと思います。