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2018.02.03
挙句の果て
「挙句の果て」
「挙句」は「あげく」と読みます。意味は「終わり。しまい。いきついた結果」。「挙句の果て」という言い回しで、「色々やってみた最終的な結果」というニュアンスを表します。「果て」というのも「結末」を意味し、重複させることによって最終的な結果であることを強調しているのですね。「思案した挙句に、変更を決定した」などのように、副詞的な使い方をすることもあります。
さて、この「挙句」という言葉ですが、元々は何のことであったのかはご存知でしょうか?「句」とあるのですから、ピンとくる方もいらっしゃるでしょう。日本の伝統的な詩歌の形式である、「五・七・五」の長句と「七・七」の短句を思い浮べて下さいね。そして、この長句と短句を交互に連ねてゆくのが「連歌」と呼ばれる文芸のスタイルになります。最初にある人が五・七・五を詠みます。コレだけでも一つの文学作品です。その句を味わいつつも、次にある人が七・七を付け足します。出来上がったのは五・七・五・七・七ですね。短歌ですよ、立派な。この短歌を鑑賞しつつも、さらにある人が五・七・五を付け加えていくのです。そしてさらに次の人が七・七を…と、一体どこまで続けるのか?実に、百句になるまで長句・短句を交互に連ねていくというのが「百韻連歌」(ひゃくいんれんが)と呼ばれる形態なのです。
複数の人たちが一つの場に寄り合って行うものなので、「座の文芸」と言われたりもします。その場で創作し、そして他人の歌を鑑賞しながら再び創作、これを繰り返しながら共同でひとつの詩を制作していくという、世界でも類を見ない文学のあり方です。連歌の魅力は、その場に参加している多数の人たちが次々と詠み継いでいく楽しさにあります。別人が詠み継いでいくことによって思いがけない発想や変化も生まれ、いわばゲーム感覚で連歌を楽しんでいた様子が伺えます。
この連歌において、最初に詠まれる「五・七・五」が「発句」(ほっく)であり、そして最後に詠まれる「七・七」が「挙句」なのです。「いきついた結果」を表す言い回しとして、「挙句」という表現が採用されるというのは、きわめて文学的な用法なのであります。
さて、この「発句」の部分が独立して、「世界一短い文学」と呼ばれるようになったのが、ご存知「俳句」ですね。俳句の成立に文字通り命をかけて取り組んだ人物こそが正岡子規、その人ですね。「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」という句はおなじみでしょう。子規の友人であった文豪夏目漱石の作品『三四郎』の中に、こんな記述がありますよ。「子規は果物が大変好きだった。かついくらでも食える男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。自分などは到底子規の真似は出来ない」なんてね。
俳句を生み出した子規ですが、実はその過程で、連歌を否定しているのです。「文学に非(あら)ず」とまで。連歌は多数の人たちが一つの座につどい、一緒になって創作するという「共同の文学」でしたから、個人主義的で「個性」を絶対視する近代文学の理念と相容れなかったのですね。明治という近代日本に生きた子規の、一途に思いつめる考え方が伝わってくるエピソードだともいえます。
「挙句」は「あげく」と読みます。意味は「終わり。しまい。いきついた結果」。「挙句の果て」という言い回しで、「色々やってみた最終的な結果」というニュアンスを表します。「果て」というのも「結末」を意味し、重複させることによって最終的な結果であることを強調しているのですね。「思案した挙句に、変更を決定した」などのように、副詞的な使い方をすることもあります。
さて、この「挙句」という言葉ですが、元々は何のことであったのかはご存知でしょうか?「句」とあるのですから、ピンとくる方もいらっしゃるでしょう。日本の伝統的な詩歌の形式である、「五・七・五」の長句と「七・七」の短句を思い浮べて下さいね。そして、この長句と短句を交互に連ねてゆくのが「連歌」と呼ばれる文芸のスタイルになります。最初にある人が五・七・五を詠みます。コレだけでも一つの文学作品です。その句を味わいつつも、次にある人が七・七を付け足します。出来上がったのは五・七・五・七・七ですね。短歌ですよ、立派な。この短歌を鑑賞しつつも、さらにある人が五・七・五を付け加えていくのです。そしてさらに次の人が七・七を…と、一体どこまで続けるのか?実に、百句になるまで長句・短句を交互に連ねていくというのが「百韻連歌」(ひゃくいんれんが)と呼ばれる形態なのです。
複数の人たちが一つの場に寄り合って行うものなので、「座の文芸」と言われたりもします。その場で創作し、そして他人の歌を鑑賞しながら再び創作、これを繰り返しながら共同でひとつの詩を制作していくという、世界でも類を見ない文学のあり方です。連歌の魅力は、その場に参加している多数の人たちが次々と詠み継いでいく楽しさにあります。別人が詠み継いでいくことによって思いがけない発想や変化も生まれ、いわばゲーム感覚で連歌を楽しんでいた様子が伺えます。
この連歌において、最初に詠まれる「五・七・五」が「発句」(ほっく)であり、そして最後に詠まれる「七・七」が「挙句」なのです。「いきついた結果」を表す言い回しとして、「挙句」という表現が採用されるというのは、きわめて文学的な用法なのであります。
さて、この「発句」の部分が独立して、「世界一短い文学」と呼ばれるようになったのが、ご存知「俳句」ですね。俳句の成立に文字通り命をかけて取り組んだ人物こそが正岡子規、その人ですね。「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」という句はおなじみでしょう。子規の友人であった文豪夏目漱石の作品『三四郎』の中に、こんな記述がありますよ。「子規は果物が大変好きだった。かついくらでも食える男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。自分などは到底子規の真似は出来ない」なんてね。
俳句を生み出した子規ですが、実はその過程で、連歌を否定しているのです。「文学に非(あら)ず」とまで。連歌は多数の人たちが一つの座につどい、一緒になって創作するという「共同の文学」でしたから、個人主義的で「個性」を絶対視する近代文学の理念と相容れなかったのですね。明治という近代日本に生きた子規の、一途に思いつめる考え方が伝わってくるエピソードだともいえます。
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