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2018.07.06 謦咳に接する
 「謦咳に接する」

 「情報化」の波は教室という教育の現場にも押し寄せています。人工知能の発達によって、将来的には人間の仕事が奪われてしまうかもしれない職種、という予測が発表されて話題となりましたが、「教師」というジャンルは人間のままの仕事で残るそうです。それでも、「情報を生徒に与える」という観点からだけですと、アンドロイドによる間違いのない情報発信の方が優れているのでは?という思いがよぎりますよね。でも、情報以外の要素にこそ、教室での先生によるライブの授業の醍醐味があると思うのですよ。どういう意味でしょうか?
 そこで登場する言葉が「謦咳に接する」になります。「謦咳」とは「せきばらい」のことです。「謦咳に接する」というのは、間近でせきばらいを聞けるだけで幸せであるという意味から、尊敬する人と直接会ったり、話を聞くことを敬っていう言葉となりました。中国の古典『荘子』が出典だとされる故事成語です。
 いくら尊敬する人物に接することが嬉しいからといって、話のはじめの「せきばらい」だけを聞いて、何か意味があるのでしょうか?情報という観点からはゼロですよね。さすがにノートに「せきばらい」を書き写す生徒はいないでしょう。けれども私は、その「せきばらい」=「先生が発するニュアンス」には、意味があると考えるのです。
 江戸時代の高僧、白隠禅師が、自らの師匠について語った話があります。正受老人と呼ばれたその方の周りには、いつも二百人ほどの弟子が集まっていたそうです。正受老人はお説教もしなければ、お経も上げません。けれども弟子たちは、そのお人柄に触れ、それだけで自分が磨かれていくと思い、つきまとっていたのだそうです。これぞ「謦咳に接する」ですよね。
 言葉によって説明される「説教」や、文字として記されている「経」というのは、「情報」だと言うことができます。いわば「予習できること」でもあるのです。ところが、さらにその先、仏教の真理に近づこうとするならば、自分で何かに気づかなくてはなりません。その際にヒントとなるのは、師匠である正受老人の態度そのものなのでしょう。おそらくは、何気ない一言や、ちょっとした仕草によって、「その人の全貌があらわれる」という程のインパクトを与えることができたのだと思います。不用意な一言で全てを台無しにしてしまうというありがちな失敗の、まさに逆バージョンですね。単なる情報には還元できない「意味」が、謦咳に接するということにはあるのだと思いますよ!