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2019.06.30 潜在能力
 「潜在能力」

 「ポテンシャルが高い」という言い方がありますよね。人物評として使われる場合には「まだ表面化していないが、潜在的な力がある」という意味で、期待を込めた表現になったりします。けれども「ポテンシャルは高いのに…」という言い回しの場合には、評価が反転することになります。「期待通りのパフォーマンスを発揮できていない」という意味になってしまいますから。「やればできる」という言い方も同様ですね。「やればできる!(だから頑張って結果を出そう)」と「やればできるのに…(でもやらないから結果が出ない)」では方向性が180度違います。それでも「やれば」という仮定の話だという点は共通しているのです。いずれにせよ結果は出ていないのですからね。ポテンシャルという言葉を日本語に直せば「潜在能力」になるでしょう。隠された力がある、というニュアンスです。「伸びしろ」という言い方も最近よく耳にしますよね。「経験をつめばまだまだ伸びそうだ」という意味合いで使われます。
 さて、「潜在」という熟語の反対語はご存知でしょうか?「顕在」になります。漢字の違いは「潜」と「顕」ですね。それぞれ訓読みしてみましょう。「潜」は「ひそ(む)」「もぐ(る)」となります。「ひっそりとかくれている」という意味ですね。「顕」は「あき(らか)」「あらわ(す)」で、「はっきりとわかるようにする」という意味です。「顕在能力」という言葉は聞いたことがありませんよね。なぜでしょう?サッカーが上手だ、という例で考えてみましょう。「ハンパない」と誰もが認める能力の高さというのは、目に見えて明らかです。「後ろ向きでボールをトラップするなんてすごいね!まねできないよ!」とはっきりとわかります。ですから「顕在」と、わざわざ言うまでもないことなのですよね。それに対して「潜在能力」というのは、隠れていて誰にも分からないというものです。そもそも本人でさえ気づいていない能力なのですから。ある人物の中でいわば「眠っている能力」という意味ですよね。さて、この潜在能力を引き出すということ。これこそが先生が生徒に対して働きかける最も重要なミッションではないでしょうか!それにはどのようなアプローチが必要なのでしょう。
 「子どもはほめて育てるものだ」という考えが、広く世間に受け入れられています。そのせいか、結果も伴わないのにとにかくほめなければいけない、やりもしないのに「やればできる」とほめなければいけない、と何だか強迫観念のように「ほめ続けなくてはならない」という風潮があります。ポテンシャルにせよ、潜在能力にせよ、伸びしろにせよ、とにかくほめる方向で使わなくてはならないと。そうでなければ子どもの自己肯定感が育たない、というのですが…。本当にそうでしょうか。
 私も何度か「自己肯定感は重要である」という話をしたことがあります。教え子の東大合格生が、共通して身につけているのが「自己肯定感」だったという話です。けれどもそれは、ほめられた結果身についたものではないと思うのです。自己肯定感は周りが与えるようなものではないからです。壁にぶつかって悩み、もがき苦しみながらも頑張りぬいて、乗り越えることによってはじめて培われていくものなのです。「やればできる」と言われて育った子どもは、自尊心は高くなるのでしょうが、学力は落ちるものだと、長年の経験で確信しています。ほめるのにはタイミングがあるのです。結果についてほめるべきなのです。「やればできる」ではなくて「やったらできた」のタイミングでほめてこそ、学力が伸びるのです。
 潜在能力を引き出すと言いましたが、文字通りの意味では先生が生徒の能力を「引き出し」たりはできないと思います。生徒自身が「自分にこんなことができるなんて!」と発見することこそが、潜在能力の意味ですから。「やったらできた!」と、感動を覚えることが重要なのです。そしてそのタイミングで「すごいな!」と、共感することが先生の最大のミッションなのです。
 「やれば」という仮定の話ではなくて、「やった」という事実。そのチャレンジこそが、潜在能力の発見をもたらします。先生の役割は「やってみろ」と促すことと、「やったらできた!」のタイミングで認めること。ここにあるんだと思いますよ。