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 お祝いのことば
 皆さん、ご卒業おめでとうございます。晴れの卒業式にあたり、文京区議会を代表いたしまして、心からお祝いを申し上げます。
さて小学校を卒業する皆さんに、ぜひお知らせしたいことがあります。それは、なんと小学生が政治を動かした!というお話です。長野県の佐久市では「ポイ捨て禁止条例」が制定されています。条例というのは議会で議決したその自治体のルールのことです。この条例制定のきっかけとなったのが、小学校5年生と2年生の兄弟だったのです。
 通学路のごみが気になった兄弟二人は、一年間にわたって毎月、両親と一緒にごみを拾い続けました。ところがごみは一向に減る気配がありません。特に多かったのがタバコの吸殻です。子どもたちが学校に通う道であるにもかかわらずです。このままではいけないと思います!と、兄弟は佐久市にうったえたのでした。「僕たちはたばこの吸い殻を拾いながら『大人が捨てたごみを子どもが拾うなんて、悲しい』と思いました」と。条例をつくってポイ捨てをなくしてほしい!とお願いしたのです。こうした要望のことを「陳情」(ちんじょう)といいます。
 陳情は誰でも自由に自治体や議員などに意見を伝えられる方法なのです。「一体どうやって?」と思うかもしれませんが、文京区のホームページで確認してみて下さい。「区民の声」を受けつけていますから。このように意見を伝える方法は、日本国憲法の16条で保障された請願権に基づいたものなのです。誰でも国や地方議会などに要望を述べることができるのです。
 皆さんも、実現してほしい政策を文京区に要望することに挑戦してみてはどうでしょうか!そのためには、自分たちの住んでいる文京区のことをよく知らなくてはなりません。その上で「自分たちのふるさとをもっとよくしたい」という思いを持ってほしいのです。
小学校を卒業し、大人への階段を着実にのぼっていく皆さんを、ふるさと文京は応援し続けます。新しく広がる世界に向けて、大きな一歩を歩み出す皆さんを見守っています。皆さんの人生が幸多きものになることへの祈りを込めまして、お祝いの言葉としたいと思います。

 令和四年 三月二十五日
 文京区議会議長 田中 としかね
 福島県富岡町「震災遺産保全条例」

 今回ご紹介するのは福島県富岡町(とみおかまち)で制定された条例になります。富岡町は福島県の東部に位置し、北は大熊町、西は川内村、南は楢葉町とそれぞれ境を接し、阿武隈高地と太平洋の間に広がる面積68.39㎢の町になります。
 福島県は奥羽山脈と阿武隈高地という二つの南北に連なる山系によって縦に線が引かれるかたちで三つの地域に区分されており、太平洋側の東から順に「浜通り」・「中通り」・「会津」と呼ばれています。それぞれに特徴のある地域色を出していますよ。気候も大きく異なっています。浜通りは当然太平洋側の気候であり、会津は日本海側の気候ですから。浜通りで桜が満開という時期に、会津ではまだ雪が残っているのが普通という状況ですからね。
 では問題です。冷害をおこすのは主に三つのうちのどの地域でしょうか?もちろん正解は浜通りですよ。雪や冬の寒さと冷害は関係ありませんからね。春から夏にかけて吹く冷たく湿った北東よりの風、すなわち「やませ」の影響で日照不足と低温から水稲の作柄不良をおこすのでしたね。寒流である親潮の上を吹き渡ってくる風ですから太平洋側でおこる現象になります。
 富岡町はどこの地域かといえば、もちろん浜通りに位置しています。明治維新で江戸時代の藩が廃止されて県が生まれたのはご存知ですよね。1871年の廃藩置県です。江戸時代に300近くあった藩が、県として整理されていくのですから大変です。統廃合が繰り返されることになります。会津が若松県、中通りが福島県、浜通りが磐前(いわさき)県と呼ばれていたこともありました。結局その三つが合併して生まれたのが現在の福島県なのです。1876年のことでした。ところが細かく見ると、その浜通りも北と南で歴史的風土が異なるといいます。戦国時代に北を相馬氏が、南を岩城氏が領有し、ちょうどその境目にある富岡では領有権争いが激しかったというのです。ですから富岡の「夜ノ森」や「小良ヶ浜」という地名は、「余の森」(自分の森)「おらが浜」(自分の浜)だとお互いに主張して、領有地の境界線となったことに由来すると言われています。
 その夜ノ森ですが、桜並木で全国的に有名なのです。最初に植えられたのは戊辰戦争後だと言いますから歴史は長いですよ。樹齢100年を超えたソメイヨシノを含め、約1500本の桜が道路の両側に植えられ全長約2.5㎞の桜のトンネルを形成しています。毎年4月に「夜ノ森桜祭」が開催され、全国各地からのお花見客によって賑わい、夜には桜がライトアップされていました。夜ノ森という名前の幻想的なイメージにぴったりのイベントなのでした。12年前までは…。東日本大震災の発生で町の様子は一変しました。東京電力福島第一原子力発電所事故に伴い避難指示が出され、夜ノ森地区は帰還困難区域に指定されることになったのです。富岡町内の避難指示が解除されたのは、今から5年前、平成29年の4月になってからのことでした。そしてそのタイミングで施行されたのが、全国で初めてとなる「震災遺産保全条例」でした。震災や原発事故の教訓を受け継ぎ、町の「記録」「記憶」を守ることで住民の帰還につなげたいとの思いがあったのです。条例は全7条からなり、「地域や住民に及ぼした影響や教訓の発信」「風化の防止」「町の再生・復興に資する」などを目的としています。震災遺産にあたるものとして、建造物や標識、印刷物、衣服、口述記録などをはじめ、震災や原発事故を伝えることができるものとして幅広く対象物が掲げられています。救援に向かい警察官が犠牲になった福島県警のパトカー、震災が発生した午後2時46分すぎで針が止まったままになった帰還困難区域の集会所の時計、JR富岡駅近くで津波にのまれた時計、住民が掲げた「富岡は負けん!」の横断幕…。「震災や原発事故で、富岡町の息づかいは突然止まりました。でも当時の記録、記憶を残すこと、かつてのふるさとを感じる『足跡』を広く伝えることが、住民の帰還にもつながることになると思います」と、富岡町の職員の方はおっしゃいます。
 「災害の教訓を活かそう」という取り組みは確実に広がっています。国土地理院は新しく「自然災害伝承碑」の地図記号をつくり、掲載することを決めました。新しい地図記号ができたのは、平成18年の「風車」と「老人ホーム」以来13年ぶりのこととなります。自然災害伝承碑とは、過去に起きた自然災害の規模や被害の情報を伝える石碑やモニュメントのことです。国土地理院では、自然災害伝承碑の情報を地方公共団体と連携して収集を開始しています。集めた情報は、国土地理院のウェブ地図「地理院地図」や2万5千分1地形図に掲載されることになります。先人たちが現代に伝える災害の教訓を正しく知ることが、災害への備えを充実させ、災害による被害の軽減に貢献するものと考えているそうです。