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2023.03.29
コロナ緊急人権宣言
千葉県松戸市「コロナ緊急人権宣言」
「宣言シリーズ」が続きますが、「連続」は今回がラストです。紹介するのは千葉県松戸市で「緊急に」発せられた宣言になります。松戸市は千葉県の北西部に位置する人口約50万人の市です。東京都とは江戸川をはさんで、葛飾区とほんの少しだけ江戸川区に接していますよ。地図帳で確認すると、松戸市のほぼ中心部を国道6号線がJR常磐線と並びながら縦断していることがわかります。この国道6号線の地元での呼び名が水戸街道です。水戸街道は江戸時代に定められた幹線道路で、五街道に準ずる脇街道の一つになります。千住宿を基点に、松戸宿、取手宿、土浦宿など十九の宿場を経て、水戸に至る約116㎞の行程です。当時は二泊三日で歩いていました。松戸市は水戸街道の宿場町である松戸宿として栄えたという歴史があるのです。なぜ江戸と水戸を結ぶ街道が重視されたのかというと、徳川御三家の一つである水戸徳川家の存在があります。将軍の補佐役と目され、水戸藩主は江戸に生活の本拠を置いていました。参勤交代も求められなかったのです。まれに藩主が国許である水戸に下るときの行列は盛大となり、幕府の役人であろうと土下座して送り迎えしたと伝えられています。時代劇の中で「下に、下に」の掛け声で知られるあのシーンですよ。ただの大名行列では使われない掛け声なのです。「水戸の副将軍」「天下の副将軍」といった言い回しも、現代の時代劇の中だけではなく、江戸時代から講釈師(明治時代からは講談師と呼ばれるようになります)が使っていたそうです。もちろん副将軍という役職は正式にはありませんよ。
もう一つ、社会の学習で忘れてはいけない松戸市に関するエピソードがあります。それは「二十世紀梨」発見の地であるということです。現在その場所は「二十世紀が丘梨元町」と名づけられ、記念碑や鳥取県から贈られた感謝の碑が立っています。明治21年(1888年)に発見された新種の梨は「これからやってくる二十世紀を代表する品種になる」との思いから「二十世紀梨」と命名されたのでした。鳥取県から感謝されていることからも分かるように、かつては「梨といえば二十世紀梨」で、その生産量の多い鳥取県が梨の生産量日本一を誇っていたのでした…平成の半ばの頃までは。その後、甘みの強い梨の品種である「幸水」や「豊水」の人気が高まり、現在では梨の県別出荷量ランキングは入れ替わっています。栄えある一位は現在千葉県が獲得していますが、むしろ皆さんにとっては「梨の妖精ふなっしー」の宣伝のおかげで、「千葉県が一位」であることの方が知識として定着しているのかもしれませんね。
そんな千葉県の松戸市で、2020年の8月1日に出されたのが「コロナ緊急人権宣言」です。正式には「新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴う人権尊重緊急宣言」になります。当時の夏休みの頃の状況を思い出してみましょう。国の緊急事態宣言は解除されたものの、感染者数は都市部を中心に再び増加に転じ、依然として予断を許さない状況となっていました。新型コロナウイルス感染症への対応が長期化する中、感染された方やその家族に対して、また、感染リスクにさらされながら人々の健康を守るために最前線で懸命に闘っている医療・介護関係者をはじめとする、社会生活を支えるために日々奮闘している多くの関係者(=エッセンシャルワーカー)やその家族に対して、心無い差別的な発言や偏見に基づくいじめ等が大きな社会問題となっていました。目に見えないウイルスへの不安から、その矛先が目の前にいる人間に向かってしまったのです。感染のリスクは誰にだってあるにもかかわらずです。松戸市では人権尊重と正しい情報と知識に基づいた行動をとることの大切さを、市民にうったえたのでした。
人権は、いかなる場合でも尊重されるべき基本的な権利であり、日本国憲法の三大原則の一つです。誰もが生まれながらにして持っている、人間の尊厳に基づく固有の権利で、自分も、自分以外の人も、すべての人が「人間らしく、自分らしく生きる」ために必要なものです。偏見や思い込みに起因する差別は、この人権にするどく対立するものです。日本では、法務省などが中心となって差別解消に向けた取組を行っています。世界では、国際連合が人権教育の推進を呼びかけています。「世界人権宣言」はご存知でしょうか。「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利とについて平等である」。この有名な文言から始まる世界人権宣言が国連で採択されたのは、1948年12月10日になります。人類が20世紀に二度の世界大戦を経験して、多くの尊い生命を奪い、悲劇と破壊をもたらしたことへの反省から、平和と人権の尊重を推進するために採択されたものです。国連はこの日を「人権デー」と定め、人権尊重を世界にうったえています。日本でも毎年12月4日から10日の一週間を「人権週間」として、全国各地でさまざまな啓発事業を実施していますよ。
歴史上、感染症は人類が繰り返し直面してきた大きな脅威です。日本も例外ではありません。奈良の大仏を建立した聖武天皇の天平時代は、天然痘の大流行期でもありました。大宝律令の編纂に携わった藤原不比等の四人の息子たちが、そろって病死したのもこの時期です。聖武天皇は疫病を鎮める目的もあって大仏を建立しました。そうした伝統を現代にも引き継ぐ東大寺では、新型コロナウイルス早期終息と罹患した方々の早期回復、感染により亡くなられた方々の追福菩提のために祈りを捧げ続けていましたよ。ようやく「感染症の終息」のめどがたってきましたが、感染症に関する「差別・偏見やいじめ等のない」世の中にむけては、これからも目指していかなければなりませんね。
「宣言シリーズ」が続きますが、「連続」は今回がラストです。紹介するのは千葉県松戸市で「緊急に」発せられた宣言になります。松戸市は千葉県の北西部に位置する人口約50万人の市です。東京都とは江戸川をはさんで、葛飾区とほんの少しだけ江戸川区に接していますよ。地図帳で確認すると、松戸市のほぼ中心部を国道6号線がJR常磐線と並びながら縦断していることがわかります。この国道6号線の地元での呼び名が水戸街道です。水戸街道は江戸時代に定められた幹線道路で、五街道に準ずる脇街道の一つになります。千住宿を基点に、松戸宿、取手宿、土浦宿など十九の宿場を経て、水戸に至る約116㎞の行程です。当時は二泊三日で歩いていました。松戸市は水戸街道の宿場町である松戸宿として栄えたという歴史があるのです。なぜ江戸と水戸を結ぶ街道が重視されたのかというと、徳川御三家の一つである水戸徳川家の存在があります。将軍の補佐役と目され、水戸藩主は江戸に生活の本拠を置いていました。参勤交代も求められなかったのです。まれに藩主が国許である水戸に下るときの行列は盛大となり、幕府の役人であろうと土下座して送り迎えしたと伝えられています。時代劇の中で「下に、下に」の掛け声で知られるあのシーンですよ。ただの大名行列では使われない掛け声なのです。「水戸の副将軍」「天下の副将軍」といった言い回しも、現代の時代劇の中だけではなく、江戸時代から講釈師(明治時代からは講談師と呼ばれるようになります)が使っていたそうです。もちろん副将軍という役職は正式にはありませんよ。
もう一つ、社会の学習で忘れてはいけない松戸市に関するエピソードがあります。それは「二十世紀梨」発見の地であるということです。現在その場所は「二十世紀が丘梨元町」と名づけられ、記念碑や鳥取県から贈られた感謝の碑が立っています。明治21年(1888年)に発見された新種の梨は「これからやってくる二十世紀を代表する品種になる」との思いから「二十世紀梨」と命名されたのでした。鳥取県から感謝されていることからも分かるように、かつては「梨といえば二十世紀梨」で、その生産量の多い鳥取県が梨の生産量日本一を誇っていたのでした…平成の半ばの頃までは。その後、甘みの強い梨の品種である「幸水」や「豊水」の人気が高まり、現在では梨の県別出荷量ランキングは入れ替わっています。栄えある一位は現在千葉県が獲得していますが、むしろ皆さんにとっては「梨の妖精ふなっしー」の宣伝のおかげで、「千葉県が一位」であることの方が知識として定着しているのかもしれませんね。
そんな千葉県の松戸市で、2020年の8月1日に出されたのが「コロナ緊急人権宣言」です。正式には「新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴う人権尊重緊急宣言」になります。当時の夏休みの頃の状況を思い出してみましょう。国の緊急事態宣言は解除されたものの、感染者数は都市部を中心に再び増加に転じ、依然として予断を許さない状況となっていました。新型コロナウイルス感染症への対応が長期化する中、感染された方やその家族に対して、また、感染リスクにさらされながら人々の健康を守るために最前線で懸命に闘っている医療・介護関係者をはじめとする、社会生活を支えるために日々奮闘している多くの関係者(=エッセンシャルワーカー)やその家族に対して、心無い差別的な発言や偏見に基づくいじめ等が大きな社会問題となっていました。目に見えないウイルスへの不安から、その矛先が目の前にいる人間に向かってしまったのです。感染のリスクは誰にだってあるにもかかわらずです。松戸市では人権尊重と正しい情報と知識に基づいた行動をとることの大切さを、市民にうったえたのでした。
人権は、いかなる場合でも尊重されるべき基本的な権利であり、日本国憲法の三大原則の一つです。誰もが生まれながらにして持っている、人間の尊厳に基づく固有の権利で、自分も、自分以外の人も、すべての人が「人間らしく、自分らしく生きる」ために必要なものです。偏見や思い込みに起因する差別は、この人権にするどく対立するものです。日本では、法務省などが中心となって差別解消に向けた取組を行っています。世界では、国際連合が人権教育の推進を呼びかけています。「世界人権宣言」はご存知でしょうか。「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利とについて平等である」。この有名な文言から始まる世界人権宣言が国連で採択されたのは、1948年12月10日になります。人類が20世紀に二度の世界大戦を経験して、多くの尊い生命を奪い、悲劇と破壊をもたらしたことへの反省から、平和と人権の尊重を推進するために採択されたものです。国連はこの日を「人権デー」と定め、人権尊重を世界にうったえています。日本でも毎年12月4日から10日の一週間を「人権週間」として、全国各地でさまざまな啓発事業を実施していますよ。
歴史上、感染症は人類が繰り返し直面してきた大きな脅威です。日本も例外ではありません。奈良の大仏を建立した聖武天皇の天平時代は、天然痘の大流行期でもありました。大宝律令の編纂に携わった藤原不比等の四人の息子たちが、そろって病死したのもこの時期です。聖武天皇は疫病を鎮める目的もあって大仏を建立しました。そうした伝統を現代にも引き継ぐ東大寺では、新型コロナウイルス早期終息と罹患した方々の早期回復、感染により亡くなられた方々の追福菩提のために祈りを捧げ続けていましたよ。ようやく「感染症の終息」のめどがたってきましたが、感染症に関する「差別・偏見やいじめ等のない」世の中にむけては、これからも目指していかなければなりませんね。
2023.03.23
ひきこもり支援宣言
岡山県総社市「ひきこもり支援宣言」
今回取り上げるのは岡山県総社市の市長さんが提唱した宣言です。令和元年の8月26日に「全国ひきこもり支援基礎自治体サミット」が総社市で開催され、群馬県安中市長と愛知県豊明市長と滋賀県守山市長と山口県宇部市長と岡山県総社市長の5名による共同宣言が発表されました。「ひきこもり支援基礎自治体宣言書」にそろって署名したのです。そこには「わたしたちは、すべての人々に寄り添う自治体となることを目指し、家族会、当事者の会、福祉関係者とともに、ひきこもり支援に果敢に取り組むことを宣言します」と記されています。呼びかけ人である総社市の片岡聡一市長に直接お会いしてお話を伺う機会がありましたので、宣言の意図もふくめて皆さんに紹介してみたいと思います。
さて、岡山県総社市といって、具体的に思い浮かぶものがありますでしょうか?首都圏に在住する皆さんにとって「中国地方」というのはイメージしにくいところかもしれませんね。近畿圏に在住する小学生が「関東甲信越」といわれてもピンとこないように、普段から接している情報にはどうしても地域差がありますから。それでも最近は岡山県のPR大使も務める人気お笑い芸人さんがテレビで活躍していますので、「岡山弁」を耳にしたこともあるのではないでしょうか。「おかやま晴れの国大使」として岡山県の魅力を発信していますよ。「晴れの国」というのは、温暖少雨で晴天に恵まれた瀬戸内式気候に属する岡山県のイメージなのです。
総社市は岡山県南西部の内陸に位置しています。東は岡山市と、南では倉敷市とも接していますよ。北から南を貫いて流れている高梁川は、岡山県の流域面積第1位となる一級河川で、吉備高原を通って流れてきます。「吉備」というのは現在でも岡山県の通称とされ、この地方は古代から吉備国として栄えていました。「吉備という語感がたまらなく好きである」と言っていたのは作家の司馬遼太郎さんで、岡山のことを「桃太郎の末裔たちの国」とも表現しています。吉備団子といえば岡山県の郷土菓子ですよね。桃太郎に登場することでも有名です。この童話「桃太郎」の原型となった「鬼退治伝説」が、吉備では伝えられてきたのです。「古代、吉備には温羅(うら)という鬼がいました。温羅は鬼城山を居城として村人を襲い、悪事を重ねていました。そこで、大和の王は吉備津彦命に温羅を退治するよう命じました。吉備津彦命は、吉備の中山に陣を構え、巨石の楯を築き守りを固め、一方、温羅も城から弓矢で迎え撃ちます。そして激しい戦いの末、傷を負った温羅は鯉に化けて逃走し、吉備津彦命は鵜に変身して温羅を捕まえ退治しました。」この伝説の舞台となっているのが、総社市に点在する史跡群なのです。「古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語」として「桃太郎伝説の生まれたまち おかやま」が日本遺産に認定されたのは平成30年5月のことです。日本遺産というのは、地域の歴史的魅力や特色を通じて、日本文化や伝統を語る「ストーリー(物語)」を文化庁が認定する制度で、さまざまな文化財を国内外に発信することで地域の活性化を図ることを目的としています。これまで保存を重視してきた文化財を、活用することに力点を置いた制度なのですよ。
ちなみに総社市では、買い物や通院のために出かけるときに電話予約をすると、ワンボックスカーが自宅などに迎えに来てくれて希望する目的地まで送ってくれるという公共の乗り物があります。その名も「雪舟くん」です。なぜ雪舟かというと、室町時代に水墨画を文化の域にまで大成させた、雪舟の生誕の地が総社市だからです。お寺で修業をしていた雪舟が、絵ばかり描くのでしかられて、柱にしばりつけられて泣いていたときに、それでも足の指を使って涙でネズミの絵を描いていたという話は有名ですよね。その逸話が残るのも、総社市にある宝福寺なのです。
閑話休題、「ひきこもり支援宣言」です。「8050問題」という言葉をご存知でしょうか。80代の親が50代の子どもの生活を支えているという問題です。背景にあるのは子どもの「ひきこもり」です。ひきこもりという言葉が社会に広がりはじめた頃は「若者の問題」とされていました。それから約30年が経過して、当時の若者が50代に、その親が80代となり、ひきこもりの長期化と高齢化が進んでいます。この「8050問題」に取り組む先進自治体の一つが、平成29年に「ひきこもり支援センター」を開設した総社市なのです。
「小中学校時代の不登校は市の担当、高校生のひきこもりは県の担当、社会人のひきこもりは国の担当なんていう縦割りでは対応できない」と、片岡市長はおっしゃいます。ひきこもりの定義が「義務教育終了後であって、おおむね6ヶ月間以上、社会から孤立した状態にある」というのでは、義務教育期間を担当する市の役割が限られてしまいます。厚生労働省がひきこもり支援として打ち出した生活困窮者自立支援制度も、就労支援の側面が強く、支援の条件に当てはまらない人たちには行き届かないこともあります。住民に最も身近な基礎自治体が、ひきこもりの窓口にならなくては「すべての人々に寄り添う」ことはかないません。「制度の狭間に入りこんでしまい、自ら支援を求めることが難しい人を、支援につなげることこそ政治の役割だ」と、片岡市長はおっしゃいます。地域共生社会の実現に向けて、社会のひずみに光を当てることが、社会全体に安心感を広げることにもなるはずである、という信念が感じられましたよ。
今回取り上げるのは岡山県総社市の市長さんが提唱した宣言です。令和元年の8月26日に「全国ひきこもり支援基礎自治体サミット」が総社市で開催され、群馬県安中市長と愛知県豊明市長と滋賀県守山市長と山口県宇部市長と岡山県総社市長の5名による共同宣言が発表されました。「ひきこもり支援基礎自治体宣言書」にそろって署名したのです。そこには「わたしたちは、すべての人々に寄り添う自治体となることを目指し、家族会、当事者の会、福祉関係者とともに、ひきこもり支援に果敢に取り組むことを宣言します」と記されています。呼びかけ人である総社市の片岡聡一市長に直接お会いしてお話を伺う機会がありましたので、宣言の意図もふくめて皆さんに紹介してみたいと思います。
さて、岡山県総社市といって、具体的に思い浮かぶものがありますでしょうか?首都圏に在住する皆さんにとって「中国地方」というのはイメージしにくいところかもしれませんね。近畿圏に在住する小学生が「関東甲信越」といわれてもピンとこないように、普段から接している情報にはどうしても地域差がありますから。それでも最近は岡山県のPR大使も務める人気お笑い芸人さんがテレビで活躍していますので、「岡山弁」を耳にしたこともあるのではないでしょうか。「おかやま晴れの国大使」として岡山県の魅力を発信していますよ。「晴れの国」というのは、温暖少雨で晴天に恵まれた瀬戸内式気候に属する岡山県のイメージなのです。
総社市は岡山県南西部の内陸に位置しています。東は岡山市と、南では倉敷市とも接していますよ。北から南を貫いて流れている高梁川は、岡山県の流域面積第1位となる一級河川で、吉備高原を通って流れてきます。「吉備」というのは現在でも岡山県の通称とされ、この地方は古代から吉備国として栄えていました。「吉備という語感がたまらなく好きである」と言っていたのは作家の司馬遼太郎さんで、岡山のことを「桃太郎の末裔たちの国」とも表現しています。吉備団子といえば岡山県の郷土菓子ですよね。桃太郎に登場することでも有名です。この童話「桃太郎」の原型となった「鬼退治伝説」が、吉備では伝えられてきたのです。「古代、吉備には温羅(うら)という鬼がいました。温羅は鬼城山を居城として村人を襲い、悪事を重ねていました。そこで、大和の王は吉備津彦命に温羅を退治するよう命じました。吉備津彦命は、吉備の中山に陣を構え、巨石の楯を築き守りを固め、一方、温羅も城から弓矢で迎え撃ちます。そして激しい戦いの末、傷を負った温羅は鯉に化けて逃走し、吉備津彦命は鵜に変身して温羅を捕まえ退治しました。」この伝説の舞台となっているのが、総社市に点在する史跡群なのです。「古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語」として「桃太郎伝説の生まれたまち おかやま」が日本遺産に認定されたのは平成30年5月のことです。日本遺産というのは、地域の歴史的魅力や特色を通じて、日本文化や伝統を語る「ストーリー(物語)」を文化庁が認定する制度で、さまざまな文化財を国内外に発信することで地域の活性化を図ることを目的としています。これまで保存を重視してきた文化財を、活用することに力点を置いた制度なのですよ。
ちなみに総社市では、買い物や通院のために出かけるときに電話予約をすると、ワンボックスカーが自宅などに迎えに来てくれて希望する目的地まで送ってくれるという公共の乗り物があります。その名も「雪舟くん」です。なぜ雪舟かというと、室町時代に水墨画を文化の域にまで大成させた、雪舟の生誕の地が総社市だからです。お寺で修業をしていた雪舟が、絵ばかり描くのでしかられて、柱にしばりつけられて泣いていたときに、それでも足の指を使って涙でネズミの絵を描いていたという話は有名ですよね。その逸話が残るのも、総社市にある宝福寺なのです。
閑話休題、「ひきこもり支援宣言」です。「8050問題」という言葉をご存知でしょうか。80代の親が50代の子どもの生活を支えているという問題です。背景にあるのは子どもの「ひきこもり」です。ひきこもりという言葉が社会に広がりはじめた頃は「若者の問題」とされていました。それから約30年が経過して、当時の若者が50代に、その親が80代となり、ひきこもりの長期化と高齢化が進んでいます。この「8050問題」に取り組む先進自治体の一つが、平成29年に「ひきこもり支援センター」を開設した総社市なのです。
「小中学校時代の不登校は市の担当、高校生のひきこもりは県の担当、社会人のひきこもりは国の担当なんていう縦割りでは対応できない」と、片岡市長はおっしゃいます。ひきこもりの定義が「義務教育終了後であって、おおむね6ヶ月間以上、社会から孤立した状態にある」というのでは、義務教育期間を担当する市の役割が限られてしまいます。厚生労働省がひきこもり支援として打ち出した生活困窮者自立支援制度も、就労支援の側面が強く、支援の条件に当てはまらない人たちには行き届かないこともあります。住民に最も身近な基礎自治体が、ひきこもりの窓口にならなくては「すべての人々に寄り添う」ことはかないません。「制度の狭間に入りこんでしまい、自ら支援を求めることが難しい人を、支援につなげることこそ政治の役割だ」と、片岡市長はおっしゃいます。地域共生社会の実現に向けて、社会のひずみに光を当てることが、社会全体に安心感を広げることにもなるはずである、という信念が感じられましたよ。
2023.03.19
気候非常事態宣言
長崎県壱岐市「気候非常事態宣言」
今回紹介するのは長崎県壱岐市で制定された宣言になります。いつもは「条例」を取り上げていますが、今回は「宣言」です。では宣言というのは何でしょうか?自治体の出す宣言は「都市宣言」とも呼ばれ、特定のテーマについて、その自治体がどのように取り組もうとしているのかを示すものになります。例えば、モータリゼーション(自動車が生活必需品として普及すること)が進展し、それに伴う交通死亡事故が増加した時代には、全国各都市で「交通安全都市宣言」が制定されました。また、世界的に平和運動が広がりをみせた時代には、「非核都市宣言」「平和都市宣言」などが多くの自治体で制定されました。
地方議会が議決すべきことがら(議決事件といいます)を定めている地方自治法第 96 条では、宣言は議決事件とはなっていません。ですが、自治体が重視している地域課題を表現するとともに、それに対して積極的に取り組もうとしていることを表明するのが宣言ですから、議会の議決を前提にしている例も多いのです。今回紹介する、日本で初となる「気候非常事態宣言」も、議決によって制定されました。2019年の9月25日、壱岐市議会において可決、承認されたのです。
エメラルドグリーンの海、新鮮な魚介類。九州の北西沖に浮かぶ島、長崎県壱岐市は観光地としても人気のスポットです。壱岐の周辺は玄界灘とよばれる海域で世界有数の漁場でもあります。対馬海流が流れているため気温の変化は緩やかであり、年間を通して多くの観光客が訪れます。壱岐へのアクセスは、佐賀県の唐津東港からは42km、福岡県の博多港からは76km、同じ長崎県の対馬の厳原からは68km、長崎空港からは94kmになります。ですから長崎県の壱岐ではありますが、佐賀県に一番近いところに位置しているともいえます。またフェリーの便数が最も多いのは博多港からで、長崎港からはフェリーは出ていません。アクセスの起点は福岡県だともいえます。では、なぜ壱岐市が長崎県に所属しているのでしょうか。さかのぼること明治時代、それは廃藩置県に起因します。壱岐は江戸時代には平戸藩に所属しており、平戸藩が長崎県に編入されたことから壱岐も長崎に同時に編入されたということのようです。
さらに歴史をさかのぼると、壱岐は大変な危機を迎えたことがありました。時は鎌倉時代、元寇とよばれる「国難」に直面しました。文永・弘安の役ともいわれ、当時の資料的表現では「蒙古襲来」ということになります。ユーラシア大陸史上最大の国土を保有したモンゴル帝国が、朝鮮半島を通じて日本に攻め込もうとしてきました。その侵攻の順路となったのが壱岐なのです。壱岐には元の大軍が上陸しました。当時の島民のほとんどが殺害されたといいます。壱岐の芦辺港の近くには、馬に乗った若武者の像が立てられています。その人物の名は少弐資時、19歳にして壱岐をまもって戦死した武人です。壱岐神社では今も島の守護神として祀られています。資時の父である少弐経資は、鎮西御家人を指揮して異国警固番役を勤め、元寇に際しては軍事最高責任者として防戦に活躍した人物です。
さて、そうした歴史をもつ壱岐で制定されたのが「気候非常事態宣言」です。この宣言を世界で最初に制定したのは、オーストラリアにあるデアビン市になります。2016年に議決されました。その後、欧米を中心に拡大し、現在では世界中で2000をこえる国や地域、組織が宣言を出しています。では、壱岐市が全国に先駆けて宣言を出したきっかけは何だったのでしょうか。壱岐市総務部 SDGs未来課にお話を伺いました。
「壱岐市が気候非常事態宣言を出した背景には、まず気候変動による自然災害が顕著になってきたことがあります。さらに、海水温の上昇により魚の住処となる藻場が大幅に減少しており、2017年の漁獲量を10年前と比較すると6割も減少したことになります。漁業を主な産業とする壱岐市にとっては大打撃で、藻場を回復させる取り組みも行っていますが、気候変動問題を解決しなければ根本的な解決はできないと考えました」とおっしゃいます。環境面だけではなく、地域の経済面にも影響を及ぼしつつあることが今回の宣言につながったのだといえるでしょう。宣言文では、2050年までにCO2排出量を実質的にゼロにすることが打ち出されました。その方策としては、再生可能エネルギーの活用、省エネルギー、そして4Rの推進をあげています。4Rとは、リフューズ(REFUSE)・リデュース(REDUCE)・リユース(REUSE)・ リサイクル(RECYCLE)の4つの英語の頭文字「R」をとったものです。ごみを減らして、環境にやさしい社会をつくるキーワードになっています。
しかしながら、気候変動の問題を一自治体だけで解決することは困難です。そのため宣言は「日本政府や他の地方自治体に、気候非常事態宣言についての連携を広く呼びかけます」という一文で結ばれています。「宣言を機に市民の関心を高め、さらには、SDGs未来都市に選定された自治体などとも連携しながら取り組みをすすめていきたいです」と語ってくださいました。
壱岐市の気候非常事態宣言が出された二日前、ニューヨークの国連本部で行われた演説で当時16歳のグレタ・トゥンベリさんが「温暖化対策に失敗すれば、あなたたちを決して許さない」と、各国首脳に対して訴えました。国連のグテレス事務総長が主催して開かれた「気候行動サミット」においてです。将来世代を守るためには行動をおこさなくてはなりません。連携を呼びかける気候非常事態宣言は、将来世代への返答の一つなのかもしれません。
今回紹介するのは長崎県壱岐市で制定された宣言になります。いつもは「条例」を取り上げていますが、今回は「宣言」です。では宣言というのは何でしょうか?自治体の出す宣言は「都市宣言」とも呼ばれ、特定のテーマについて、その自治体がどのように取り組もうとしているのかを示すものになります。例えば、モータリゼーション(自動車が生活必需品として普及すること)が進展し、それに伴う交通死亡事故が増加した時代には、全国各都市で「交通安全都市宣言」が制定されました。また、世界的に平和運動が広がりをみせた時代には、「非核都市宣言」「平和都市宣言」などが多くの自治体で制定されました。
地方議会が議決すべきことがら(議決事件といいます)を定めている地方自治法第 96 条では、宣言は議決事件とはなっていません。ですが、自治体が重視している地域課題を表現するとともに、それに対して積極的に取り組もうとしていることを表明するのが宣言ですから、議会の議決を前提にしている例も多いのです。今回紹介する、日本で初となる「気候非常事態宣言」も、議決によって制定されました。2019年の9月25日、壱岐市議会において可決、承認されたのです。
エメラルドグリーンの海、新鮮な魚介類。九州の北西沖に浮かぶ島、長崎県壱岐市は観光地としても人気のスポットです。壱岐の周辺は玄界灘とよばれる海域で世界有数の漁場でもあります。対馬海流が流れているため気温の変化は緩やかであり、年間を通して多くの観光客が訪れます。壱岐へのアクセスは、佐賀県の唐津東港からは42km、福岡県の博多港からは76km、同じ長崎県の対馬の厳原からは68km、長崎空港からは94kmになります。ですから長崎県の壱岐ではありますが、佐賀県に一番近いところに位置しているともいえます。またフェリーの便数が最も多いのは博多港からで、長崎港からはフェリーは出ていません。アクセスの起点は福岡県だともいえます。では、なぜ壱岐市が長崎県に所属しているのでしょうか。さかのぼること明治時代、それは廃藩置県に起因します。壱岐は江戸時代には平戸藩に所属しており、平戸藩が長崎県に編入されたことから壱岐も長崎に同時に編入されたということのようです。
さらに歴史をさかのぼると、壱岐は大変な危機を迎えたことがありました。時は鎌倉時代、元寇とよばれる「国難」に直面しました。文永・弘安の役ともいわれ、当時の資料的表現では「蒙古襲来」ということになります。ユーラシア大陸史上最大の国土を保有したモンゴル帝国が、朝鮮半島を通じて日本に攻め込もうとしてきました。その侵攻の順路となったのが壱岐なのです。壱岐には元の大軍が上陸しました。当時の島民のほとんどが殺害されたといいます。壱岐の芦辺港の近くには、馬に乗った若武者の像が立てられています。その人物の名は少弐資時、19歳にして壱岐をまもって戦死した武人です。壱岐神社では今も島の守護神として祀られています。資時の父である少弐経資は、鎮西御家人を指揮して異国警固番役を勤め、元寇に際しては軍事最高責任者として防戦に活躍した人物です。
さて、そうした歴史をもつ壱岐で制定されたのが「気候非常事態宣言」です。この宣言を世界で最初に制定したのは、オーストラリアにあるデアビン市になります。2016年に議決されました。その後、欧米を中心に拡大し、現在では世界中で2000をこえる国や地域、組織が宣言を出しています。では、壱岐市が全国に先駆けて宣言を出したきっかけは何だったのでしょうか。壱岐市総務部 SDGs未来課にお話を伺いました。
「壱岐市が気候非常事態宣言を出した背景には、まず気候変動による自然災害が顕著になってきたことがあります。さらに、海水温の上昇により魚の住処となる藻場が大幅に減少しており、2017年の漁獲量を10年前と比較すると6割も減少したことになります。漁業を主な産業とする壱岐市にとっては大打撃で、藻場を回復させる取り組みも行っていますが、気候変動問題を解決しなければ根本的な解決はできないと考えました」とおっしゃいます。環境面だけではなく、地域の経済面にも影響を及ぼしつつあることが今回の宣言につながったのだといえるでしょう。宣言文では、2050年までにCO2排出量を実質的にゼロにすることが打ち出されました。その方策としては、再生可能エネルギーの活用、省エネルギー、そして4Rの推進をあげています。4Rとは、リフューズ(REFUSE)・リデュース(REDUCE)・リユース(REUSE)・ リサイクル(RECYCLE)の4つの英語の頭文字「R」をとったものです。ごみを減らして、環境にやさしい社会をつくるキーワードになっています。
しかしながら、気候変動の問題を一自治体だけで解決することは困難です。そのため宣言は「日本政府や他の地方自治体に、気候非常事態宣言についての連携を広く呼びかけます」という一文で結ばれています。「宣言を機に市民の関心を高め、さらには、SDGs未来都市に選定された自治体などとも連携しながら取り組みをすすめていきたいです」と語ってくださいました。
壱岐市の気候非常事態宣言が出された二日前、ニューヨークの国連本部で行われた演説で当時16歳のグレタ・トゥンベリさんが「温暖化対策に失敗すれば、あなたたちを決して許さない」と、各国首脳に対して訴えました。国連のグテレス事務総長が主催して開かれた「気候行動サミット」においてです。将来世代を守るためには行動をおこさなくてはなりません。連携を呼びかける気候非常事態宣言は、将来世代への返答の一つなのかもしれません。
2023.03.09
筆の日条例
広島県熊野町「筆の日条例」
今回紹介するのは広島県熊野町で制定された条例になります。さて皆さんは「熊野」という地名を聞くと何を思い浮かべるでしょうか?全国に3000社ほどもあるといわれているのが「熊野神社」です。どこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか。東京23区でも、板橋区・新宿区・渋谷区・目黒区・葛飾区には比較的大きな熊野神社があります。それ以外にも小さな熊野神社はたくさんありますよね。私も幼い頃、屋台が並ぶ縁日には、近所の熊野神社に友達と集まっていました。そんな全国の「熊野神社」の総本宮にあたるのが「熊野三山」と呼ばれる「熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社」の三つの大きな神社です。この熊野三山にお参りするために古くから整備されてきたのが「熊野古道」ですよね。ユネスコの世界遺産にも登録されていて、「歩ける世界遺産」として多くの旅行客を国内外から集めています。
「熊野」といえば、一般的に「熊野三山」のある和歌山県南部の地域を指している、と考えておけばいいでしょうか。それでも全国に熊野神社はありますので、ゆかりのある自治体(市区町村)として「熊野」を名乗っているところは多いのではないかと思ったのですが、実は全国に二つしかありません。一つはもちろん今回取り上げた広島県の熊野町です。熊野町にも当然、熊野神社がありますよ。ではあと残りの一つは?やはり和歌山県南部に熊野市があると思いますよね。残念?でした、正解は三重県の熊野市になります。「えっ?」と思ったのと同様に、1954年(昭和29年)に熊野市の市名が決定した際には、隣接する新宮市など和歌山県側から多くの反対があったと伝えられています。熊野本宮大社は田辺市、熊野速玉大社は新宮市、熊野那智大社は那智勝浦町、いずれも和歌山県にありますから。しかし、三重県も熊野灘に面しており、熊野川が流れていて、吉野熊野国立公園の区域にもなっていますので、「熊野」とは「和歌山県南部から三重県南部にまたがる地域名」だという解釈で、はれて熊野市となったのでした。広島県熊野町と三重県熊野市は、同じ「熊野」を名称に残す地方自治体として、友好都市協定を締結していますよ。両市町の特産品などをセットにした「ふるさと納税」の返礼品が注目されています。
もう少し「熊野」にまつわる話を続けますね。「蟻の熊野詣」という言葉を知っていますか?エサを見つけたアリの集団が、巣とエサの間に行列を作って行き来している様子をイメージしてください。そんな「密集した大行列」にたとえられるほど、熊野古道を大勢の人々が列をなして熊野三山に参詣していたというのです。平安時代末期、末法思想(災厄と争いで世界は滅びに向かうという考え)のはびこる不安な時代に、人々が救いを求めたのが浄土信仰でした。阿弥陀如来が極楽浄土に導いてくれるというものです。阿弥陀如来を本尊とする仏堂である「阿弥陀堂」がさかんにつくられましたね。平等院鳳凰堂もその一つですよ。そして熊野本宮の神様の本来の姿が阿弥陀如来であるという考え(「本地垂迹」といいます。もとは仏教の仏様が(=本地)、日本では神社の神様として現れた(=垂迹)という考え)が広まるにつれ、熊野はまさに「浄土の地」であるとみなされるようになったのです。人々はこぞって、そして何度も、熊野の地を訪れたのでした。有名なところでは後白河上皇が34回も参詣したといいます。また後鳥羽上皇も、数では負けていますが(28回)、平均10ヵ月に1度という参詣の頻度だったといいますよ。
さて広島県の熊野町についてです。北は広島市、南は呉市に接しています。広島市街地からは東南に約12㎞の地点です。山陽新幹線の線路に沿って、広島駅から12㎞といえばわかりやすいでしょうか。日本最大の筆生産地で、毛筆や化粧筆の国内シェアは約8割を占めています。江戸時代から作られている伝統的工芸品として「熊野筆」の名称で知られていますよ。知名度が一気に上がったきっかけは国民栄誉賞の記念品として取り上げられたことです。サッカー女子ワールドカップで優勝した日本女子代表チーム「なでしこジャパン」に、熊野の化粧筆が贈られたのでした。ちなみにサッカー日本代表のエンブレムに描かれている三本足の八咫烏(ヤタガラス)は、「熊野」の神様の使いだとされています。古事記や日本書紀にも登場する由緒あるキャラクターなのですよ。
熊野町は「筆の都」を標榜していて「筆を作るだけの町ではなく、筆の文化を広め、自ら筆を使う町を目指していきたい」と意欲的です。そこで制定されたのが、今回紹介する「筆の日を定める条例」なのです。「筆産業の振興と筆づくり技術の継承・発展に尽力した先人に感謝するとともに、筆の歴史と文化の価値を改めて認識し、町、事業者及び町民が連携して、その魅力を全国に発信することにより、筆文化の振興と筆産業の発展を図るため、筆の日を定める」というものです。「筆の日」は春分の日とされました。町を挙げて「書は日本文化の柱」であるという考えを発信していく決意です。熊野町が特に力を入れたのが書道の授業です。学習指導要領では、毛筆を使用する書写は小学校3年生から取り組むことになっていますが、熊野町では小学校低学年(1・2年生)のカリキュラムに独自の「書道科」を取り入れて、毛筆や書の伝統文化に親しませています。もちろん熊野筆を使っての授業です。こうした地域に根差した伝統文化に触れる教育の果たす役割は大きく、ユネスコから「持続可能な発展のための教育」であると認定されました。その後、学習指導要領が改訂され、日本においても「持続可能な社会の創り手」を育てるという理念が明確に示されたこともあり、熊野町の「書道科」の授業は、他の自治体のモデルとなる先駆的な事例として紹介されるようにもなりましたよ。
今回紹介するのは広島県熊野町で制定された条例になります。さて皆さんは「熊野」という地名を聞くと何を思い浮かべるでしょうか?全国に3000社ほどもあるといわれているのが「熊野神社」です。どこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか。東京23区でも、板橋区・新宿区・渋谷区・目黒区・葛飾区には比較的大きな熊野神社があります。それ以外にも小さな熊野神社はたくさんありますよね。私も幼い頃、屋台が並ぶ縁日には、近所の熊野神社に友達と集まっていました。そんな全国の「熊野神社」の総本宮にあたるのが「熊野三山」と呼ばれる「熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社」の三つの大きな神社です。この熊野三山にお参りするために古くから整備されてきたのが「熊野古道」ですよね。ユネスコの世界遺産にも登録されていて、「歩ける世界遺産」として多くの旅行客を国内外から集めています。
「熊野」といえば、一般的に「熊野三山」のある和歌山県南部の地域を指している、と考えておけばいいでしょうか。それでも全国に熊野神社はありますので、ゆかりのある自治体(市区町村)として「熊野」を名乗っているところは多いのではないかと思ったのですが、実は全国に二つしかありません。一つはもちろん今回取り上げた広島県の熊野町です。熊野町にも当然、熊野神社がありますよ。ではあと残りの一つは?やはり和歌山県南部に熊野市があると思いますよね。残念?でした、正解は三重県の熊野市になります。「えっ?」と思ったのと同様に、1954年(昭和29年)に熊野市の市名が決定した際には、隣接する新宮市など和歌山県側から多くの反対があったと伝えられています。熊野本宮大社は田辺市、熊野速玉大社は新宮市、熊野那智大社は那智勝浦町、いずれも和歌山県にありますから。しかし、三重県も熊野灘に面しており、熊野川が流れていて、吉野熊野国立公園の区域にもなっていますので、「熊野」とは「和歌山県南部から三重県南部にまたがる地域名」だという解釈で、はれて熊野市となったのでした。広島県熊野町と三重県熊野市は、同じ「熊野」を名称に残す地方自治体として、友好都市協定を締結していますよ。両市町の特産品などをセットにした「ふるさと納税」の返礼品が注目されています。
もう少し「熊野」にまつわる話を続けますね。「蟻の熊野詣」という言葉を知っていますか?エサを見つけたアリの集団が、巣とエサの間に行列を作って行き来している様子をイメージしてください。そんな「密集した大行列」にたとえられるほど、熊野古道を大勢の人々が列をなして熊野三山に参詣していたというのです。平安時代末期、末法思想(災厄と争いで世界は滅びに向かうという考え)のはびこる不安な時代に、人々が救いを求めたのが浄土信仰でした。阿弥陀如来が極楽浄土に導いてくれるというものです。阿弥陀如来を本尊とする仏堂である「阿弥陀堂」がさかんにつくられましたね。平等院鳳凰堂もその一つですよ。そして熊野本宮の神様の本来の姿が阿弥陀如来であるという考え(「本地垂迹」といいます。もとは仏教の仏様が(=本地)、日本では神社の神様として現れた(=垂迹)という考え)が広まるにつれ、熊野はまさに「浄土の地」であるとみなされるようになったのです。人々はこぞって、そして何度も、熊野の地を訪れたのでした。有名なところでは後白河上皇が34回も参詣したといいます。また後鳥羽上皇も、数では負けていますが(28回)、平均10ヵ月に1度という参詣の頻度だったといいますよ。
さて広島県の熊野町についてです。北は広島市、南は呉市に接しています。広島市街地からは東南に約12㎞の地点です。山陽新幹線の線路に沿って、広島駅から12㎞といえばわかりやすいでしょうか。日本最大の筆生産地で、毛筆や化粧筆の国内シェアは約8割を占めています。江戸時代から作られている伝統的工芸品として「熊野筆」の名称で知られていますよ。知名度が一気に上がったきっかけは国民栄誉賞の記念品として取り上げられたことです。サッカー女子ワールドカップで優勝した日本女子代表チーム「なでしこジャパン」に、熊野の化粧筆が贈られたのでした。ちなみにサッカー日本代表のエンブレムに描かれている三本足の八咫烏(ヤタガラス)は、「熊野」の神様の使いだとされています。古事記や日本書紀にも登場する由緒あるキャラクターなのですよ。
熊野町は「筆の都」を標榜していて「筆を作るだけの町ではなく、筆の文化を広め、自ら筆を使う町を目指していきたい」と意欲的です。そこで制定されたのが、今回紹介する「筆の日を定める条例」なのです。「筆産業の振興と筆づくり技術の継承・発展に尽力した先人に感謝するとともに、筆の歴史と文化の価値を改めて認識し、町、事業者及び町民が連携して、その魅力を全国に発信することにより、筆文化の振興と筆産業の発展を図るため、筆の日を定める」というものです。「筆の日」は春分の日とされました。町を挙げて「書は日本文化の柱」であるという考えを発信していく決意です。熊野町が特に力を入れたのが書道の授業です。学習指導要領では、毛筆を使用する書写は小学校3年生から取り組むことになっていますが、熊野町では小学校低学年(1・2年生)のカリキュラムに独自の「書道科」を取り入れて、毛筆や書の伝統文化に親しませています。もちろん熊野筆を使っての授業です。こうした地域に根差した伝統文化に触れる教育の果たす役割は大きく、ユネスコから「持続可能な発展のための教育」であると認定されました。その後、学習指導要領が改訂され、日本においても「持続可能な社会の創り手」を育てるという理念が明確に示されたこともあり、熊野町の「書道科」の授業は、他の自治体のモデルとなる先駆的な事例として紹介されるようにもなりましたよ。
2023.03.03
お菓子のはじまり条例
和歌山県海南市「お菓子のはじまり条例」
オリンピック期間中も東京では四度目となる緊急事態宣言が出されており、「無観客」の中で競技が行われていました。東京都は「お家で見よう!」とステイホームでの観戦を呼びかけていましたね。夏休み中だった皆さんも、テレビの前で選手たちを応援したことでしょう。外出を控えてお家の中で生活をしようとすると、どうなると思いますか?「家から出ずに生活する際に必要になるもの」を多くの人が求めることになります。これを「巣ごもり需要」といいますよ。この影響で「過去最高益」を更新した企業もあるのです。思いつきますか?お家にこもって趣味を楽しむ時間が増えたことから、「ゲーム・音楽のコンテンツ事業」が好調でした。また、通信販売などでお家への配達を希望する人たちが増えたため、「宅配事業」も好調でした。こうした経済の動きにも注意しておいてくださいね。皆さんにも身近な例をあげると、「手作りお菓子」の材料が、巣ごもり需要の影響で品薄状態になったといわれていますね。具体的にはホットケーキミックスやデザートの素といった製品になります。作る前の状態では保存もきき、家族で一緒に楽しく作るという「お家時間」の過ごし方が、需要を押し上げたようです。
皆さんは「水菓子」と聞くと何を思い浮べるでしょうか。「夏にぴったりの涼しげなお菓子のことです!」と、ゼリーや水ようかんなどをイメージするかもしれませんね。「水分の多いお菓子」という意味で。でもそれは「生菓子」というのが正式な呼び名になります。正式というのは「法律にもとづいて」ということですよ。「出来上がり直後において水分四○%以上を含有する菓子類」というものが食品衛生法上の「生菓子」の定義となります。「何にでも法律は関係してくるのですね!」という理解は正しいです。日常生活のあらゆる場面において、常に法律との関わりはあるものだと心得ておきましょう。「食品衛生法」は、所管する厚生労働省によると「飲食による健康被害の発生を防止するための法律」ということになります。ちなみに2018年に15年ぶりに改正されたこの食品衛生法は、2021年の6月までに「完全施行」となり、全ての食品事業者にはHACCP(ハサップ)と呼ばれる科学的な根拠に基づく衛生管理が求められることになりましたよ。
さて「水菓子」についてでした。辞書を引いてみてください。「果物、フルーツ」と出てきますから。このことが今回取り上げた「条例」に深く関わってくることになります。和歌山県海南市で制定された「お菓子のはじまり条例」です。
正式には「海南市お菓子の振興に関する条例」といいます。2018年の12月に施行されました。条文には次のようにあります。「本市は『お菓子の発祥の地』といえるのである」と。だからこそ「お菓子に関する伝統文化の理解を深め、郷土愛の醸成を図るとともに、地域経済の発展及び地域の振興を図るため」この条例を制定するのである、と。では「お菓子の発祥の地」とはどういうことでしょうか。さらに条文をみてみましょう。「果物は水菓子といわれるように、古くは、菓子と果物とは、意味の違いはなかったものとされる。本市は、みかん、ビワ、桃等の果物の産地としても知られるところであり、日本で最初に植えられた果物の実が先人達の努力により大いに発展し、現在に至っている。これらのことから、本市は『お菓子の発祥の地』といえるのである。」 どうやら「日本で最初に果物が植えられた」のが海南市であるようです。一体どういうことでしょうか?
海南市は和歌山県の北西部に位置する市です。北は和歌山市、南は有田市に隣接し、西は紀伊水道に面しています。温暖な気候に恵まれ、山の頂上近くまで耕された段々畑は柑橘栽培に向き、昔から盛んにみかんが栽培されていました。リアス式海岸の天然の良港である下津港からみかんを各地に運んでいたのです。この下津港にはある石碑が立てられています。江戸時代の元禄期(1688年~1704年)に活躍した豪商、紀伊国屋文左衛門の顕彰碑です。荒れ狂う海の中を、決死の覚悟で江戸までみかんを運び、大きな利益を得たエピソードで知られていますよね。「沖の暗いのに白帆がみえる、あれは紀州のみかん船」と俗謡にうたわれました。紀州、和歌山とみかんの結びつきは強く、農林水産省が行っている「作物統計調査」によると、2020年産のみかん収穫量が多い都道府県は、1位「和歌山県」、2位「静岡県」、3位「愛媛県」となりました。上位3つの都道府県で約50%のみかんが生産されていることになりますよ。では、海南市の条例がいう「果物」は、江戸時代にさかのぼるのでしょうか。いえいえ、「お菓子のはじまり」はさらに古いのです。
日本初の国家による歴史書である「日本書紀」が編纂されたのは、今から1300年前の養老四年(720年)のことでした。先に作られた「古事記」とは異なり、当時の国際語である漢文体を採用し、「紀」と呼ばれる時系列で表記する編年体で書かれていることから、「日本」という国号とともに対外的なアピールを狙ったものとされています。「古事記」のなかに「日本」という名称は出てきませんからね。その「日本書紀」に登場する「田道間守(たじまもり)」が、今回の条例の主人公なのです。第11代垂仁天皇の命により、田道間守が中国に渡り、不老長寿の霊果として橘(たちばな)の木を持ち帰ったと記されています。そして橘が初めて移植されたのが「六本樹の丘」と呼ばれた海南市にある場所なのです。橘は、みかんの原種であるとともに「菓子」の起源とされ、田道間守は、お菓子の神様として崇められるようにもなりました。そんなエピソードから、海南市は「みかん・お菓子発祥の地」を標榜しているのです。「お菓子の聖地となるように官民一体となって地域を盛り上げていきたい!」と意気込んでいますよ。
オリンピック期間中も東京では四度目となる緊急事態宣言が出されており、「無観客」の中で競技が行われていました。東京都は「お家で見よう!」とステイホームでの観戦を呼びかけていましたね。夏休み中だった皆さんも、テレビの前で選手たちを応援したことでしょう。外出を控えてお家の中で生活をしようとすると、どうなると思いますか?「家から出ずに生活する際に必要になるもの」を多くの人が求めることになります。これを「巣ごもり需要」といいますよ。この影響で「過去最高益」を更新した企業もあるのです。思いつきますか?お家にこもって趣味を楽しむ時間が増えたことから、「ゲーム・音楽のコンテンツ事業」が好調でした。また、通信販売などでお家への配達を希望する人たちが増えたため、「宅配事業」も好調でした。こうした経済の動きにも注意しておいてくださいね。皆さんにも身近な例をあげると、「手作りお菓子」の材料が、巣ごもり需要の影響で品薄状態になったといわれていますね。具体的にはホットケーキミックスやデザートの素といった製品になります。作る前の状態では保存もきき、家族で一緒に楽しく作るという「お家時間」の過ごし方が、需要を押し上げたようです。
皆さんは「水菓子」と聞くと何を思い浮べるでしょうか。「夏にぴったりの涼しげなお菓子のことです!」と、ゼリーや水ようかんなどをイメージするかもしれませんね。「水分の多いお菓子」という意味で。でもそれは「生菓子」というのが正式な呼び名になります。正式というのは「法律にもとづいて」ということですよ。「出来上がり直後において水分四○%以上を含有する菓子類」というものが食品衛生法上の「生菓子」の定義となります。「何にでも法律は関係してくるのですね!」という理解は正しいです。日常生活のあらゆる場面において、常に法律との関わりはあるものだと心得ておきましょう。「食品衛生法」は、所管する厚生労働省によると「飲食による健康被害の発生を防止するための法律」ということになります。ちなみに2018年に15年ぶりに改正されたこの食品衛生法は、2021年の6月までに「完全施行」となり、全ての食品事業者にはHACCP(ハサップ)と呼ばれる科学的な根拠に基づく衛生管理が求められることになりましたよ。
さて「水菓子」についてでした。辞書を引いてみてください。「果物、フルーツ」と出てきますから。このことが今回取り上げた「条例」に深く関わってくることになります。和歌山県海南市で制定された「お菓子のはじまり条例」です。
正式には「海南市お菓子の振興に関する条例」といいます。2018年の12月に施行されました。条文には次のようにあります。「本市は『お菓子の発祥の地』といえるのである」と。だからこそ「お菓子に関する伝統文化の理解を深め、郷土愛の醸成を図るとともに、地域経済の発展及び地域の振興を図るため」この条例を制定するのである、と。では「お菓子の発祥の地」とはどういうことでしょうか。さらに条文をみてみましょう。「果物は水菓子といわれるように、古くは、菓子と果物とは、意味の違いはなかったものとされる。本市は、みかん、ビワ、桃等の果物の産地としても知られるところであり、日本で最初に植えられた果物の実が先人達の努力により大いに発展し、現在に至っている。これらのことから、本市は『お菓子の発祥の地』といえるのである。」 どうやら「日本で最初に果物が植えられた」のが海南市であるようです。一体どういうことでしょうか?
海南市は和歌山県の北西部に位置する市です。北は和歌山市、南は有田市に隣接し、西は紀伊水道に面しています。温暖な気候に恵まれ、山の頂上近くまで耕された段々畑は柑橘栽培に向き、昔から盛んにみかんが栽培されていました。リアス式海岸の天然の良港である下津港からみかんを各地に運んでいたのです。この下津港にはある石碑が立てられています。江戸時代の元禄期(1688年~1704年)に活躍した豪商、紀伊国屋文左衛門の顕彰碑です。荒れ狂う海の中を、決死の覚悟で江戸までみかんを運び、大きな利益を得たエピソードで知られていますよね。「沖の暗いのに白帆がみえる、あれは紀州のみかん船」と俗謡にうたわれました。紀州、和歌山とみかんの結びつきは強く、農林水産省が行っている「作物統計調査」によると、2020年産のみかん収穫量が多い都道府県は、1位「和歌山県」、2位「静岡県」、3位「愛媛県」となりました。上位3つの都道府県で約50%のみかんが生産されていることになりますよ。では、海南市の条例がいう「果物」は、江戸時代にさかのぼるのでしょうか。いえいえ、「お菓子のはじまり」はさらに古いのです。
日本初の国家による歴史書である「日本書紀」が編纂されたのは、今から1300年前の養老四年(720年)のことでした。先に作られた「古事記」とは異なり、当時の国際語である漢文体を採用し、「紀」と呼ばれる時系列で表記する編年体で書かれていることから、「日本」という国号とともに対外的なアピールを狙ったものとされています。「古事記」のなかに「日本」という名称は出てきませんからね。その「日本書紀」に登場する「田道間守(たじまもり)」が、今回の条例の主人公なのです。第11代垂仁天皇の命により、田道間守が中国に渡り、不老長寿の霊果として橘(たちばな)の木を持ち帰ったと記されています。そして橘が初めて移植されたのが「六本樹の丘」と呼ばれた海南市にある場所なのです。橘は、みかんの原種であるとともに「菓子」の起源とされ、田道間守は、お菓子の神様として崇められるようにもなりました。そんなエピソードから、海南市は「みかん・お菓子発祥の地」を標榜しているのです。「お菓子の聖地となるように官民一体となって地域を盛り上げていきたい!」と意気込んでいますよ。
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