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2018.10.12 不問に付す
 「不問に付す」

 使われている漢字から考えて文字通りの解釈をすると「問題にしないでおく」という意味になりますよね。ではどんな時に使うのでしょうか?問題視されてもよいことがらに対して、あえて「とりたてて問題にはしない」という判断を下す際に使われます。ですから「過失などをとがめないでおく」という意味合いにもなり、さらには「見逃す」というニュアンスまで含まれます。ミスをした者に対してそれを判定する立場にある者が、「今回は許してやるが、次はないぞ!」という、警告とともに反省への期待をこめて「問題にはしない」という態度をとるときに使うこともあります。生徒を指導する立場にある先生にとっては、この「不問に付す」ということが普段の学校生活においても、生徒に対してとるべき態度としておこりうるのです。その際に先生から「今回のミスは不問に付すことにする」などといった発言が、生徒に対して直接あるわけではありませんが、先生として生徒への指導上、黙って見逃すということはありうるのです。しかも、この不問に付すことができるというのが、先生にとって重要な手腕の一つとしてカウントできると私は思っています。やはりベテランの先生でないとタイミングを見計らうのが難しいのではないかと考えるからです。
 「でも、生徒がミスをしたのに知らん顔をしているなんて、それでいいのでしょうか?ちゃんとミスを指摘した上で、正しいことを教えるのが先生の仕事なのではないでしょうか?」真っ当な質問です。先生としての仕事を放棄して、問題がなかったことにしているだけではないか?という疑惑ですよね(笑)。確かに、教えるのが大変だったり面倒くさかったりするならば、それをなかったことにしてサボりたいと考えるのが人間だともいえるでしょう。しかしながら、先生にとって教えるということは決して苦にならないのです。そもそも教えることが好きだからこそ、先生と呼ばれる職業に就いているはずですからね。教えたがるのが先生という人間なのですよ。その先生の本性に反して「教えずに見逃す」という選択をあえてできるところが、ベテランのなせる業だと言いたいのです。
 もちろん見逃すといっても、生徒が間違いに気づいていないときに知らん顔をしていてもはじまりません。ちゃんと指摘をして教えます。間違った理解のままでいられては困りますからね。当然、正しい知識を理解させてこその先生です。ところが「それは間違いです、正解はこれです」と伝えるだけでは、決して生徒の身にはつかないということも経験上よく知っているのがベテランの先生なのですよ。人から教えてもらったことというのはすぐに分かった気になります。と同時にすぐに忘れてしまうのです。もちろん生徒が「分かった!」と目を輝かせてくれるのは、教師にとってこの上もない喜びの瞬間であります。そのためにこそ授業の工夫や教材の研究も続けられるというものです。それでもこの「分かった」は曲者だ!ということに気づいていることが重要なのです。理解はしてもすぐに忘れてしまうというリスクを考慮しなくてはなりません。本当の意味で知識が身につくタイミングというのは、生徒自身が納得したときだけなのです。間違いに自分で気づき、それを消去できたときに、はじめて正しい理解だけが頭に残るという仕組みなのです。「人は消去法でしか学べない」という大脳生理学に基づく説明がありますよね。
 ポイントは、生徒が自分で間違いに気づいたときに、黙って見逃すことが先生にできるか?ということです。自分自身を振り返ってみても、自ら気づいたことというのは本当に一生覚えているものです。「気づき」というのはそれくらい重要なタイミングであり、生徒にとって最大の成長のチャンスだといえるでしょう。この体験を邪魔してはなりません。成長の機会を奪ってはならないのです。ここは自分の出る幕ではないと、先生が堂々と傍観できるということ。不問に付す、見て見ぬふりをすることができるというのが、あるべき教師像の一つだと私は考えるわけですよ。
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