2017.07.02 包括的な
「包括的な」

 「すべてをひっくるめて」という意味を表す言い回しです。一つひとつではなく、全体をまとめて、という意味になります。少し前にはやった表現に「まるっと」という言葉がありますが、これは「まるごと、全部」を意味する愛知県周辺地域の方言だそうです。意味合いは全く同じですね。「包括的核実験禁止条約」も「まるっと核実験禁止条約」といえば分かりやすいでしょう。「宇宙空間、大気圏内、水中、地下を含むあらゆる空間での核兵器の核実験による爆発、その他の核爆発を禁止する条約」という意味ですから。
 さて、この「包括的」という考え方ですが、実は人間の脳には非常に馴染みやすいという性質があります。どういうことかといいますと、人間の脳は「概念」としてものごとをとらえるクセがあります。ライオン・シマウマ・キリン…といった具体的な生き物を、「動物」といって一くくりにするのも一例です。「一言ですませられる」ということに価値を置くのです。脳にとってはその方がラクだからです。
ところがこの包括的なとらえ方には落とし穴があります。「一言ですませられるのに、いざそれを実行しようとすると、とても難しくなる」という点です。たとえば「勉強する」という言葉も包括的な概念です。「よし、勉強するぞ!」というのは、脳にとって都合のいい?表現なのです。口にするには便利ですから。ところが、いざ実行するとなると…具体的なイメージがともなわなくて、何をすればいいのか分からないままなのです。
 すぐに実行できるようになるためには「まるごと、全部」ではなく「部分に、分解」を心掛けるべきです。「勉強する」ではなく「英単語を覚える」というように。実際に行う内容にまで「分解」することが重要なのです。
2017.06.01 金剛力士
「金剛力士」

 「こんごうりきし」と読みます。仏教の守護神であり、一般的には「仁王(におう)」の名前で親しまれていますよね。口を開いた「阿形(あぎょう)像」と口を結んだ「吽形(うんぎょう)像」の二体を一対としてお寺の表門などに安置されていて、腰に衣をまいただけの半裸の姿で、筋骨隆々とした肉体を見せてくれていますね。「金剛」とは、「最も硬いもの」を意味し、「金剛石」といえばダイヤモンドを指します。「力士」は「力の強い男」を意味し、相撲取りのことでもありますよね。ですから、「金剛力士」を英語で表現するとどうなると思いますか?ダイヤモンドスモーレスラー(笑)。いえいえ、英語でも「コンゴーリキシ」「ニオー」で表記されています。
 最も有名な「金剛力士」といえば、奈良の東大寺にある仁王像ですよね。作者の運慶の名前も有名です。皆さんは、夏目漱石の短編『夢十夜』をご存知でしょうか?そこに運慶が登場するエピソードがあるのです。運慶は平安末~鎌倉初期に活躍した仏師(=仏像をつくる職人)ですが、それが明治の世に、しかも東京の護国寺で仁王を彫っているという不思議な話です。護国寺は文京区にあるお寺です。夏目漱石が現在の文京区に住んでいたのですよ、実は。話の中で、運慶の仕事ぶりを見学する輪の中に漱石はいます。運慶の見事な仕事ぶりを評して、ある野次馬が呟(つぶや)くのです。「あれは木の中にあらかじめ仏像が埋まっていて、それをほじくり出しているだけだ」と。それを聞いて、漱石も家に帰って、鑿(のみ)をふるい仏像を彫り出してみようとするのですが、一向に仏像は出てこない…。
 皆さんも感じたことはありませんか?名ピアニストが演奏するコンサートで、「音楽はあらかじめ楽器の中に仕込まれているのではないか?」と。素人はいとも簡単にできるのではないか?と勘違いするのですが、そこには気の遠くなるような反復練習という過程が潜んでいるのです。けれども、たとえそうだとしても、少なくとも最初から「そんなことは無理だ」と思い込んでしまっては、できるものもできないというのもまた事実ではないでしょうか。「恐れを知らない」ことこそ、物事を始める際のアドバンテージなのです!さあ、皆さんも、勇猛果敢にチャレンジです!とりあえず仏像を彫り出してみよう!と思うことが大切なのですよ。
「贔屓の引き倒し」

 贔屓(ひいき)というのは「自分の気に入っている人やチームなどを、特に力を入れて応援すること」を意味する熟語です。贔屓の引き倒しというのは「ひいきしすぎて、かえってその人に迷惑をかけること」という意味の慣用表現ですが、「贔屓の引き倒しになってはいけない」という否定表現で使われることがほとんどです。このセリフが効果的に使われたのが夏目漱石の小説『三四郎』ですね。
 『三四郎』が描かれた背景は明治時代の後半、日本が日露戦争に勝利して「一等国になった!」と浮かれていた時代でした。主人公の三四郎君も「日本もだんだんと発展する」と、青雲の志を抱きつつ汽車に乗り込んで熊本から東京に向かっていたのでした。その時たまたま一緒に乗り合わせた「髭の男」にこう告げられたのです。日本は「滅びるね」と。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」と。
 三四郎君は衝撃を受けました。「熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる」と、驚きを隠せませんでした。もしかしたら年の若い自分をからかって、そんなことを言っているのではないか?とも考えました。でも、髭の男の態度はどこまでも落ち着いて見えます。三四郎君はどうにも理解できず、相手になるのをやめて黙ってしまいました。すると男は続けてこう言うのでした。以下少し引用してみますね。
 「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より…」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。
この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。
 三四郎君と髭の男(広田先生)との出会いを描いた、極めて印象的な場面ですね。その後の日本の歴史を知っている皆さんには、広田先生のこの言葉がまるで予言のように聞こえるのではないでしょうか。小説『三四郎』が書かれてから100年以上が経過していますが、今なおこの広田先生の言葉は生きていると思いますよ。三四郎君はこの言葉によって、自分の頭で考えないことを、卑怯な振る舞いにあたると悟ったのでした。変えることのできないものだと勝手に思い込んでしまっていること、周りがみんなそう思っているという常識こそ、疑ってかかるべきだということ。さらにその上で、変えてはいけないことを自分自身で発見しなくてはならないということ。変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵こそ「頭の中」に秘められた可能性なのですね。
「開いた口がふさがらない」

 あまりにもあきれると、ぽかんと口を開いた状態のまま一言も言葉を発しなくなることから、「相手の行動・態度に、あきれかえってものが言えない様子」を表す慣用表現になりますね。ところが先日、こんな用例に出くわして驚いた次第です。「イチロー選手のレーザービームのような送球は開いた口がふさがらないほど素晴らしかった」というものです。これが教え子の作文だというのなら「キミキミ!間違っているよ。イチロー選手の活躍にあきれているワケではないでしょ?」と注意すればすむのですが…大手新聞社の記事なのですよ、コレが。気になったので調べてみたのですが、確かに次のような説明もありました。「どちらかというと、悪いことを嫌ったりする場合に使われるようですが、いい意味でも使われるようです」と。それでもやはり一般的には、「あきれかえってものも言えない」というニュアンスですから、ほめ言葉にはしない方が無難だと思いますよ。
 実はこの「イチロー選手」の話、もとは英文だったのですよ。日本語訳として掲載されていたのが先ほどの文なのです。ニューヨークヤンキースで活躍する日本人大リーガー「鈴木一郎選手」を紹介した記事にこんな箇所があったのです。
Ichiro Suzuki’s laser-beam-like throwing was jaw-dropping. 
 このjaw-droppingという英語の慣用表現を「あいた口がふさがらない」という日本語の慣用表現に翻訳していたのですね。英語のjawは「あご」という意味です。平和なビーチを襲う巨大人食いザメ(ホオジロザメ)の恐怖と、それに立ち向かう人々を描いた映画に『Jaws(ジョーズ)』がありましたね。スティーヴン・スピルバーグ監督作品です。大きな「上あご」と「下あご」を合わせて噛み付くワケですからJawsと複数形になるのですね。その「あご」がdropping「落ちてしまうような」、驚きを表す慣用表現となります。落ちるのは「上あご」ではなく「下あご」だけでしょうから、ここでは単数形となっているのですね。
 英語のニュアンスをそのまま伝えるのであれば、あえて日本語の慣用表現を使わずとも「イチロー選手のレーザービームのような送球には下あごが落ちるほど驚かされた」でもいいと思いますよね。十分にその驚嘆ぶりが伝わってきますから(笑)。
2017.03.02 「成長神話」
「成長神話」

 「神話」と聞くと、皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょうか。「古代の神聖な物語とか?」「神様が出てくるお話でしょう?」そうですよね。一般的なイメージとしては、この世界がどのように成立したのかを説明する宗教的な物語=創世神話のことが頭に浮かんできますよね。全知全能の神や圧倒的な力を持つ英雄が登場してくるようなオハナシです。現代人である皆さんの目から見れば「科学的な説明とは言えない」ということになってしまい、古代人の作り話に過ぎないと認識されてしまいます。そのために「神話」といえば「物語的なもの」「空想的なもの」もっと言うならば「荒唐無稽(こうとうむけい)なもの」を意味することにもなるのです。現代に置き換えるなら、「マンガ」に近い意味合いになるのでしょうか。忍術を駆使した超人的なバトルを描いた作品とか、ありますよね。けれども古代人にとっては、単なる空想ではなく紛れもない事実(信じうるに足る出来事)として考えられてきたのですよ。ここがマンガと違うところといえるでしょうか。
 このことから転じて、根拠も無く絶対的事実だと思われている事柄をたとえて「◯◯神話」と表現することがあります。「安全神話」という言い回しを皆さんもテレビニュースなどで耳にしたことがあるのではないでしょうか。「絶対に安全です!」と繰り返し強調されていた施設が、あっさりと壊れてしまった…。想定外の出来事でした、と釈明したところで言い訳にもならないはずですが、誰もが「まさか本当に壊れることがあるなんて思いもしませんでした」と口をそろえてしまう。「安全」を単なる空想ではなく、紛れもない事実であると信じていたがゆえですよね。「神話」とたとえられるのはこのためです。これが「マンガ」であれば、「安全マンガ」という言い回しとなり、こう言ってしまえば誰も「絶対に安全だ」なんて思いもしなかったでしょうにね。
 さて今回取り上げた四字熟語は「成長神話」です。「成長神話の終わり」や「成長神話からの脱却」といったフレーズが盛んに使われているように、最近では「ずっと成長が続くなんて考えるのは間違いだ!」という論調が主流です。ここでいう「成長」とは、もちろん「経済成長」のことです。どこの国の政治も経済成長を最大の目標にしているのですが、結局それは幸福や満足とは結びつかないのではないか?という批判がなされているのです。「経済成長は幸福を作りだすものではなく、不幸によって維持されるものなのだ」といったようにね。この逆説が理解できるならば、あなたの読解力は極めてハイレベル!ですよ。
 経済「成長」などと言わずに、経済「拡大」と言えば、神話的なニュアンスも薄れて実情に即したものになるのですが…そこはやはり「成長」というマジックワードが鍵となっているのでしょう。「子供の成長」という表現に典型的なように、誰もが望む肯定的な事柄を意味しているのが「成長」という言葉なのですから。先生に「お、随分と成長したな!見直したよ」と声をかけられて、不愉快な思いをするなんてことはありえないでしょう?日々の学習を続けていても、本当に学力が身についているのか…なかなか自分では確認できませんからね。思ったようにテストの点数が上がらないときには、なおさらです。「勉強の仕方が間違っているのだろうか?」「このまま続けても意味がないのでは…」、マイナスの思考が募ってしまいます。そんなときに、「間違いなく成長している!」と、客観的に指摘してもらえたら、どれほど勇気づけられるか。
 教育の世界では「成長神話」は不滅だと思いますよ。昨日よりも今日の自分は前進している。今日よりも明日の自分は力をつけている。そう思えばこそ、継続して学習ができるのですから。経済「拡大」神話は、子どもの成長を願うポジティブな思いの流用に他ならないということです(笑)
2017.02.02 機運が熟する
「機運が熟する」

 「機運」とは「ものごとがうまくいきそうな、めぐりあわせ」のことです。「機運が熟する」とは、事を行う情勢が十分に整ってくる、という意味を表す慣用表現になります。ここでいかにもオトナの言い回しに相応(ふさわ)しいといえるポイントが、「熟する」という表現を使用しているところですね。「熟」という言葉が「熟年」をすぐさま連想させるからではありませんよ!そもそも「熟年」という表現は、七十年代の後半にできた造語なのです。今では「熟年離婚」なんて見出しが紙面に踊っていたりしますので、すっかり定着した観がありますが…実は比較的新しい言葉なのですよ。急速に日本社会の高齢化が進んで、「働きざかりとは言えないが、老人と言われるのはちょっと…」という年代が増加したことによって、苦肉の策で?生み出されたボキャブラリーであったわけです。
 閑話休題。「熟する」に話を戻します。「円熟」という熟語を思い浮かべてください。用例としては「円熟した芸風」といったように、芸事の世界で誰からも「立派なものだ」と思われるくらい、芸や技が十分に上達していることを意味する言葉ですね。ですから、この「機運が熟する」も、時のめぐりあわせというチャンスが到来した!あたかも偶然に、というニュアンスを醸(かも)し出しながら、その実しっかりと下準備はしてきたことに含みを持たせることができるわけです。お分かりでしょうか。非常に高度な政治的判断を伴う態度表明の際に使用されるケースが多いと言うことができます。すなわち、「決して成り行きまかせではない」という意味合いを込めて使われる、ということですね。
 その「成り行き」を表すことばに「気運」があります。どちらも同じ「きうん」なのですが、意味合いが異なります。それは「機」と「気」のそれぞれの漢字の持つ意味合いの違いによるものです。「機」は、「あることをするのに、ちょうどいいとき。ものごとの起こるきっかけ。」という意味。「気」は、「その場にただよっているもの感じ。目に見えない働き。」という意味。ですから「気運」を使う場合には、時世のなりゆきによってある一定の方向が示されている、というケースが多いですね。用例としては「気運が高まる」という表現になります。
 「改革の機運が熟した」と「改革の気運が高まった」では、同じような表現で、随分とニュアンスが違うのですよ。このあたりの「使い分け」を意識して、演説を聞く際にもチェックしてみて下さいませ!
2017.01.06 君子豹変
「君子豹変」


「君子は豹変す」という使い方をする慣用表現ですが、教え子にこの言葉の意味を確認したところ…本来の意味とはかけ離れた「トンデモ」イメージで理解してしまっているケースが大変多いという事実に直面いたしまして(汗)。急きょ、解説をしてみようと思い立ったわけです。
「王様みたいに偉い人は、突然キレて、豹みたいに怒りまくる!」という暴君のイメージを思い描いている生徒が目立ちましたが、全部(笑)間違っています。そもそも「君子」を「君主」と勘違いしてしまっていますよ。「君主」は確かに、「世襲によって位につく統治者」のことですが、ここでは「君子」ですよ、「君子」。王様ではありません。「徳が高く品位のある人格者」を意味する言葉なのです。「君子は危うきに近寄らず」という表現を聞いたことがあるでしょう?人格者と呼ばれる人物は、身をつつしみ守って危険をおかさずにこれを避ける、という意味ですね。ついでに確認しておきましょう。「聖人君子」という四字熟語も知っておいて下さい。「学識、人格ともに優れた理想的な人物」という意味になりますからね。
さらに「豹変」については、「豹に変身する」という文字通りのイメージで、おとなしかった人が豹のように獰猛(どうもう)に一変する、という理解を示している生徒が多く見受けられました。これも間違いです。「気弱なウサギから猛々(たけだけ)しい豹に変身!」といったようなメタモルフォーゼを意味しているのではなく、「豹変」とは、「豹の斑紋(はんもん)が、季節の変わり目に抜け替わって、美しく一変する」という意味ですからね。決して「豹に変身する」わけではないのです。
「でも先生、意味はそんなに間違っていないんじゃないですか?」と、粘る生徒もいます。「立派な人でも機をみて態度や考えを安易に変える」とか「突然、本性を現して恐ろしい人物に一変する」といった、否定的な意味で使われること自体は、イメージしている通りではないですか?という意見ですね。確かに、辞書にも次のような文例が出ています。
「君子豹変す、というが、あの男の変わり身の早さには感心するよ」。明らかに否定的な意味合いですね。態度を一変させることに対して、あきれている様子です。ところが、辞書には次のような説明が続くのです。「誤用が定着したもの。今では誤りとは言い切れないが、本来の意味からは遠い」と。さてこれは、一体どうしたことでしょう。
とにかく本来の意味を確認してみましょう。そもそもこの言葉は、中国の古典『易経』の「君子は豹変す。小人は面を革(あらた)む」に由来するものです。徳のある君子はすばやくはっきりと誤りを正すが、徳のない人は外面だけを改める、という指摘なのです。「徳のある人」の態度と、「徳のない人」の態度を対比させて、「過ちを速やかに改めること」を評価して、肯定的にとらえているものだったのですよ!英訳するとこの意味がはっきりと理解できます。‘A wise man changes his mind, a fool never.’お分かりでしょうか。「愚か者は決して改めない」というところが実はポイントなのです。
ですから本来は、『論語』の中に登場する「過ちては改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」という言葉にも相通じるところがある表現なのですが、教え子たちが否定的なニュアンスでとらえているように、最近では特に、節操なく変わり身が早い、という悪い意味で用いられるようになっています。もしかしたらそれは、豹という動物の凶暴なイメージの連想からきたものなのかもしれません。辞書による説明でも「もとは、よい方への変化を言ったが、今は前言を平気でがらりと変えるなど、悪い方を言うことが多い」と、最近のとらえ方をわざわざ紹介しているほどです。
皆さんにあらためて確認してもらいたいのは、この「よい方への変化」という意味合いです。本当にひとかどの人物であれば、変化や改革を恐れはしません。必要があれば、あるいは過ちと分かれば、がらりとやり方や態度を変えるということもあるのです。ところが、小人は、表面上はそれを受け入れるそぶりをしつつも、旧来のやり方や面子にとらわれて、古いやり方や一度口にした自説にこだわってしまう。思い当たる節はありませんか?「こんなやり方ではダメだ」とうすうす気づいていながら、根本的に変えてしまうこと自体を恐れて、「とりあえず今のままでいいや」と決断を先延ばしにしてしまう…。結果の出ていないやり方にもかかわらず、「今までこれでやってきたから」と惰性で続けてしまう…。どうでしょう、身につまされることはないですか?変える!という決断には、どうしても勇気が必要になりますからね。
人は意見がぶれる人のことを信用しないものですが、意見を変えるなら変えるで、はっきりと表明すれば理解されることもあるのです。ところが、言を左右にして誤魔化そうとするから信用されなくなってしまうのです。日本の政治家が信用されないのは、まさにそのためですよね。意見を変えるときには、勇気を持って徹底的に変えることも極めて重要なのですよ!