2023.04.01
かんぴょう条例
栃木県下野市「かんぴょう条例」
今回紹介するのは栃木県下野市で制定された条例です。「下野」は「しもつけ」と読みますよ。その由来は古く、大化の改新の時代にさかのぼります。「下野国(しもつけのくに)」という表記で東山道の一国として登場します。律令制における地方の行政区分である「七道」は確認しておきましょうね。「東海道・東山道・山陽道・山陰道・北陸道・南海道・西海道」の七つです。東海道や山陰道は、これまでとりあげた条例の中で解説したこともありますよ。今回は東山道です。旧国名を並べてみると「近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽」の八か国となります。ちなみに「上野」は「こうずけ」と読みますよ。「上野国」は大半が現在の群馬県に、「下野国」は栃木県にあたりますので、覚えておきましょう。
下野市の公式ホームページには「下野市は、関東平野の北部、栃木県の中南部に位置し、都心から約85km圏にあり、首都圏の一端を構成しています」とあります。「首都圏」という表現に疑問符がついてしまう読者のために、正確な意味をお伝えしておきますね。「首都圏」の定義は首都圏整備法の第2条第1項において規定されており「東京都の区域及び政令で定めるその周辺の地域を一体とした広域」となっています。そして「政令で定めるその周辺の地域」については、首都圏整備法施行令第1条において、「埼玉県、千葉県、神奈川県、茨城県、栃木県、群馬県及び山梨県の区域」と規定されているのです。東山道の八か国のうち、上野国と下野国は現在の首都圏にあたるのだと、理解しておいて下さいね。
「東に鬼怒川と田川、西に思川と姿川が流れる高低差のあまりない、古来より開けた平坦で安定した自然災害も少ない地域です」とホームページは続きます。江戸時代には五街道の一つである日光道中の宿場町(小金井宿と石橋宿)として栄えていました。現在でも、国道4号線が首都圏の中心部と東北地方を結ぶ大動脈として南北に通っており、並行して走るJR宇都宮線(東北本線)の駅には「小金井駅」と「石橋駅」がありますからね。
そんな栃木県下野市で制定されたのが「かんぴょう条例」になります。令和2年3月に施行されました。第1条にその目的が掲げられています。「この条例は、生産量全国一位の下野市のかんぴょうの生産及び消費拡大に関し、基本理念を定め、…(中略)…、もって本市のかんぴょうに関わる産業の振興及び市民の郷土に対する愛着を深め、豊かで健康的な生活の向上を図ることを目的とする。」下野市はかんぴょうの生産量で全国1位を誇っているのです。ちなみにこうした生産量の調査は、農林水産省が「作物統計調査」や「地域特産野菜生産状況調査」として行っています。「かんぴょう」は栃木県が圧倒的で、全国のシェア(占有率)が99%※をこえています。同じく栃木県が1位の「いちご」では14.3%のシェアですし、和歌山県が圧倒的と思われる「うめ」でさえ58.1%のシェアに過ぎません。「90%をこえるシェア」となる作物は、むしろ例外と言えるでしょう。探してみましたよ!群馬県の「こんにゃくいも」、北海道の「あずき」「てんさい」、熊本県の「いぐさ」などが見つかりました。工芸作物(収穫後に加工して使う作物)にあたるものが多いことがわかりますね。「こんにゃくの原料」「砂糖の原料」「畳表の原料」ですよね。「あずき」も「あんこの原料」なのですが、豆類として「加工せずに食用になる」とも考えられます。
「かんぴょう」も原料となる夕顔(ユウガオ)の実から作られますよ。栃木県のかんぴょう生産の始まりは、年号まで特定されています。1712年、近江国水口藩(現在の滋賀県甲賀市)から下野国壬生藩(現在の栃木県壬生町)に国替えとなった鳥居忠英公が、かんぴょうの種を水口藩から取り寄せ、領内で栽培を奨励したのがきっかけだったと言われています。江戸時代の化政文化を代表する浮世絵師、歌川広重の代表作ともいえる『東海道五十三次』、その50番目の宿場として登場するのが「水口宿」です。そしてその版画のタイトルが「名物干瓢(かんぴょう)」なのです。初夏の風物として「干瓢作り」が描かれています。筵(むしろ)の上に座った女性が、まな板の上の夕顔の実に一心に包丁を入れています。その後ろには、赤ん坊を背負った娘さんが、「次に切る夕顔の実」を持ったままスタンバイしています。もうひとりの娘さんは、細長く剥(む)かれた夕顔の実を、丁寧に天日干ししています。現在でも「夕顔の実を剥いて干す」という、かんぴょう作りの基本的な作業は変わっていませんからね。
かんぴょうといえばお寿司の具材として使われます。細長い形から「長生きできるように」との願いがこめられるといいます。節分に1年の幸福や無病息災を願いながら食べる「恵方巻き」にも入っていますね。昨年の2月3日を前にして、当時の金子農林水産大臣は食品ロスを防ぐため「恵方巻きを事前に予約して購入するよう」呼びかけました。2019年に「食品ロスの削減の推進に関する法律」(略称:食品ロス削減推進法)が施行され、企業や小売店でもロスを減らす取り組みが行われるようになっているからです。10月30日が「食品ロス削減の日」と定められ、消費者にむけて啓発も行われています。宴会の食べ残しをなくすため、宴会の最初の30分間と最後の10分間は席について、ちゃんと料理を食べようという「3010(さんまるいちまる)運動」から、「3010」を逆にして10月30日に決められたということですよ。
(※データはいずれも2020年のもの)
今回紹介するのは栃木県下野市で制定された条例です。「下野」は「しもつけ」と読みますよ。その由来は古く、大化の改新の時代にさかのぼります。「下野国(しもつけのくに)」という表記で東山道の一国として登場します。律令制における地方の行政区分である「七道」は確認しておきましょうね。「東海道・東山道・山陽道・山陰道・北陸道・南海道・西海道」の七つです。東海道や山陰道は、これまでとりあげた条例の中で解説したこともありますよ。今回は東山道です。旧国名を並べてみると「近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽」の八か国となります。ちなみに「上野」は「こうずけ」と読みますよ。「上野国」は大半が現在の群馬県に、「下野国」は栃木県にあたりますので、覚えておきましょう。
下野市の公式ホームページには「下野市は、関東平野の北部、栃木県の中南部に位置し、都心から約85km圏にあり、首都圏の一端を構成しています」とあります。「首都圏」という表現に疑問符がついてしまう読者のために、正確な意味をお伝えしておきますね。「首都圏」の定義は首都圏整備法の第2条第1項において規定されており「東京都の区域及び政令で定めるその周辺の地域を一体とした広域」となっています。そして「政令で定めるその周辺の地域」については、首都圏整備法施行令第1条において、「埼玉県、千葉県、神奈川県、茨城県、栃木県、群馬県及び山梨県の区域」と規定されているのです。東山道の八か国のうち、上野国と下野国は現在の首都圏にあたるのだと、理解しておいて下さいね。
「東に鬼怒川と田川、西に思川と姿川が流れる高低差のあまりない、古来より開けた平坦で安定した自然災害も少ない地域です」とホームページは続きます。江戸時代には五街道の一つである日光道中の宿場町(小金井宿と石橋宿)として栄えていました。現在でも、国道4号線が首都圏の中心部と東北地方を結ぶ大動脈として南北に通っており、並行して走るJR宇都宮線(東北本線)の駅には「小金井駅」と「石橋駅」がありますからね。
そんな栃木県下野市で制定されたのが「かんぴょう条例」になります。令和2年3月に施行されました。第1条にその目的が掲げられています。「この条例は、生産量全国一位の下野市のかんぴょうの生産及び消費拡大に関し、基本理念を定め、…(中略)…、もって本市のかんぴょうに関わる産業の振興及び市民の郷土に対する愛着を深め、豊かで健康的な生活の向上を図ることを目的とする。」下野市はかんぴょうの生産量で全国1位を誇っているのです。ちなみにこうした生産量の調査は、農林水産省が「作物統計調査」や「地域特産野菜生産状況調査」として行っています。「かんぴょう」は栃木県が圧倒的で、全国のシェア(占有率)が99%※をこえています。同じく栃木県が1位の「いちご」では14.3%のシェアですし、和歌山県が圧倒的と思われる「うめ」でさえ58.1%のシェアに過ぎません。「90%をこえるシェア」となる作物は、むしろ例外と言えるでしょう。探してみましたよ!群馬県の「こんにゃくいも」、北海道の「あずき」「てんさい」、熊本県の「いぐさ」などが見つかりました。工芸作物(収穫後に加工して使う作物)にあたるものが多いことがわかりますね。「こんにゃくの原料」「砂糖の原料」「畳表の原料」ですよね。「あずき」も「あんこの原料」なのですが、豆類として「加工せずに食用になる」とも考えられます。
「かんぴょう」も原料となる夕顔(ユウガオ)の実から作られますよ。栃木県のかんぴょう生産の始まりは、年号まで特定されています。1712年、近江国水口藩(現在の滋賀県甲賀市)から下野国壬生藩(現在の栃木県壬生町)に国替えとなった鳥居忠英公が、かんぴょうの種を水口藩から取り寄せ、領内で栽培を奨励したのがきっかけだったと言われています。江戸時代の化政文化を代表する浮世絵師、歌川広重の代表作ともいえる『東海道五十三次』、その50番目の宿場として登場するのが「水口宿」です。そしてその版画のタイトルが「名物干瓢(かんぴょう)」なのです。初夏の風物として「干瓢作り」が描かれています。筵(むしろ)の上に座った女性が、まな板の上の夕顔の実に一心に包丁を入れています。その後ろには、赤ん坊を背負った娘さんが、「次に切る夕顔の実」を持ったままスタンバイしています。もうひとりの娘さんは、細長く剥(む)かれた夕顔の実を、丁寧に天日干ししています。現在でも「夕顔の実を剥いて干す」という、かんぴょう作りの基本的な作業は変わっていませんからね。
かんぴょうといえばお寿司の具材として使われます。細長い形から「長生きできるように」との願いがこめられるといいます。節分に1年の幸福や無病息災を願いながら食べる「恵方巻き」にも入っていますね。昨年の2月3日を前にして、当時の金子農林水産大臣は食品ロスを防ぐため「恵方巻きを事前に予約して購入するよう」呼びかけました。2019年に「食品ロスの削減の推進に関する法律」(略称:食品ロス削減推進法)が施行され、企業や小売店でもロスを減らす取り組みが行われるようになっているからです。10月30日が「食品ロス削減の日」と定められ、消費者にむけて啓発も行われています。宴会の食べ残しをなくすため、宴会の最初の30分間と最後の10分間は席について、ちゃんと料理を食べようという「3010(さんまるいちまる)運動」から、「3010」を逆にして10月30日に決められたということですよ。
(※データはいずれも2020年のもの)
2023.03.29
コロナ緊急人権宣言
千葉県松戸市「コロナ緊急人権宣言」
「宣言シリーズ」が続きますが、「連続」は今回がラストです。紹介するのは千葉県松戸市で「緊急に」発せられた宣言になります。松戸市は千葉県の北西部に位置する人口約50万人の市です。東京都とは江戸川をはさんで、葛飾区とほんの少しだけ江戸川区に接していますよ。地図帳で確認すると、松戸市のほぼ中心部を国道6号線がJR常磐線と並びながら縦断していることがわかります。この国道6号線の地元での呼び名が水戸街道です。水戸街道は江戸時代に定められた幹線道路で、五街道に準ずる脇街道の一つになります。千住宿を基点に、松戸宿、取手宿、土浦宿など十九の宿場を経て、水戸に至る約116㎞の行程です。当時は二泊三日で歩いていました。松戸市は水戸街道の宿場町である松戸宿として栄えたという歴史があるのです。なぜ江戸と水戸を結ぶ街道が重視されたのかというと、徳川御三家の一つである水戸徳川家の存在があります。将軍の補佐役と目され、水戸藩主は江戸に生活の本拠を置いていました。参勤交代も求められなかったのです。まれに藩主が国許である水戸に下るときの行列は盛大となり、幕府の役人であろうと土下座して送り迎えしたと伝えられています。時代劇の中で「下に、下に」の掛け声で知られるあのシーンですよ。ただの大名行列では使われない掛け声なのです。「水戸の副将軍」「天下の副将軍」といった言い回しも、現代の時代劇の中だけではなく、江戸時代から講釈師(明治時代からは講談師と呼ばれるようになります)が使っていたそうです。もちろん副将軍という役職は正式にはありませんよ。
もう一つ、社会の学習で忘れてはいけない松戸市に関するエピソードがあります。それは「二十世紀梨」発見の地であるということです。現在その場所は「二十世紀が丘梨元町」と名づけられ、記念碑や鳥取県から贈られた感謝の碑が立っています。明治21年(1888年)に発見された新種の梨は「これからやってくる二十世紀を代表する品種になる」との思いから「二十世紀梨」と命名されたのでした。鳥取県から感謝されていることからも分かるように、かつては「梨といえば二十世紀梨」で、その生産量の多い鳥取県が梨の生産量日本一を誇っていたのでした…平成の半ばの頃までは。その後、甘みの強い梨の品種である「幸水」や「豊水」の人気が高まり、現在では梨の県別出荷量ランキングは入れ替わっています。栄えある一位は現在千葉県が獲得していますが、むしろ皆さんにとっては「梨の妖精ふなっしー」の宣伝のおかげで、「千葉県が一位」であることの方が知識として定着しているのかもしれませんね。
そんな千葉県の松戸市で、2020年の8月1日に出されたのが「コロナ緊急人権宣言」です。正式には「新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴う人権尊重緊急宣言」になります。当時の夏休みの頃の状況を思い出してみましょう。国の緊急事態宣言は解除されたものの、感染者数は都市部を中心に再び増加に転じ、依然として予断を許さない状況となっていました。新型コロナウイルス感染症への対応が長期化する中、感染された方やその家族に対して、また、感染リスクにさらされながら人々の健康を守るために最前線で懸命に闘っている医療・介護関係者をはじめとする、社会生活を支えるために日々奮闘している多くの関係者(=エッセンシャルワーカー)やその家族に対して、心無い差別的な発言や偏見に基づくいじめ等が大きな社会問題となっていました。目に見えないウイルスへの不安から、その矛先が目の前にいる人間に向かってしまったのです。感染のリスクは誰にだってあるにもかかわらずです。松戸市では人権尊重と正しい情報と知識に基づいた行動をとることの大切さを、市民にうったえたのでした。
人権は、いかなる場合でも尊重されるべき基本的な権利であり、日本国憲法の三大原則の一つです。誰もが生まれながらにして持っている、人間の尊厳に基づく固有の権利で、自分も、自分以外の人も、すべての人が「人間らしく、自分らしく生きる」ために必要なものです。偏見や思い込みに起因する差別は、この人権にするどく対立するものです。日本では、法務省などが中心となって差別解消に向けた取組を行っています。世界では、国際連合が人権教育の推進を呼びかけています。「世界人権宣言」はご存知でしょうか。「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利とについて平等である」。この有名な文言から始まる世界人権宣言が国連で採択されたのは、1948年12月10日になります。人類が20世紀に二度の世界大戦を経験して、多くの尊い生命を奪い、悲劇と破壊をもたらしたことへの反省から、平和と人権の尊重を推進するために採択されたものです。国連はこの日を「人権デー」と定め、人権尊重を世界にうったえています。日本でも毎年12月4日から10日の一週間を「人権週間」として、全国各地でさまざまな啓発事業を実施していますよ。
歴史上、感染症は人類が繰り返し直面してきた大きな脅威です。日本も例外ではありません。奈良の大仏を建立した聖武天皇の天平時代は、天然痘の大流行期でもありました。大宝律令の編纂に携わった藤原不比等の四人の息子たちが、そろって病死したのもこの時期です。聖武天皇は疫病を鎮める目的もあって大仏を建立しました。そうした伝統を現代にも引き継ぐ東大寺では、新型コロナウイルス早期終息と罹患した方々の早期回復、感染により亡くなられた方々の追福菩提のために祈りを捧げ続けていましたよ。ようやく「感染症の終息」のめどがたってきましたが、感染症に関する「差別・偏見やいじめ等のない」世の中にむけては、これからも目指していかなければなりませんね。
「宣言シリーズ」が続きますが、「連続」は今回がラストです。紹介するのは千葉県松戸市で「緊急に」発せられた宣言になります。松戸市は千葉県の北西部に位置する人口約50万人の市です。東京都とは江戸川をはさんで、葛飾区とほんの少しだけ江戸川区に接していますよ。地図帳で確認すると、松戸市のほぼ中心部を国道6号線がJR常磐線と並びながら縦断していることがわかります。この国道6号線の地元での呼び名が水戸街道です。水戸街道は江戸時代に定められた幹線道路で、五街道に準ずる脇街道の一つになります。千住宿を基点に、松戸宿、取手宿、土浦宿など十九の宿場を経て、水戸に至る約116㎞の行程です。当時は二泊三日で歩いていました。松戸市は水戸街道の宿場町である松戸宿として栄えたという歴史があるのです。なぜ江戸と水戸を結ぶ街道が重視されたのかというと、徳川御三家の一つである水戸徳川家の存在があります。将軍の補佐役と目され、水戸藩主は江戸に生活の本拠を置いていました。参勤交代も求められなかったのです。まれに藩主が国許である水戸に下るときの行列は盛大となり、幕府の役人であろうと土下座して送り迎えしたと伝えられています。時代劇の中で「下に、下に」の掛け声で知られるあのシーンですよ。ただの大名行列では使われない掛け声なのです。「水戸の副将軍」「天下の副将軍」といった言い回しも、現代の時代劇の中だけではなく、江戸時代から講釈師(明治時代からは講談師と呼ばれるようになります)が使っていたそうです。もちろん副将軍という役職は正式にはありませんよ。
もう一つ、社会の学習で忘れてはいけない松戸市に関するエピソードがあります。それは「二十世紀梨」発見の地であるということです。現在その場所は「二十世紀が丘梨元町」と名づけられ、記念碑や鳥取県から贈られた感謝の碑が立っています。明治21年(1888年)に発見された新種の梨は「これからやってくる二十世紀を代表する品種になる」との思いから「二十世紀梨」と命名されたのでした。鳥取県から感謝されていることからも分かるように、かつては「梨といえば二十世紀梨」で、その生産量の多い鳥取県が梨の生産量日本一を誇っていたのでした…平成の半ばの頃までは。その後、甘みの強い梨の品種である「幸水」や「豊水」の人気が高まり、現在では梨の県別出荷量ランキングは入れ替わっています。栄えある一位は現在千葉県が獲得していますが、むしろ皆さんにとっては「梨の妖精ふなっしー」の宣伝のおかげで、「千葉県が一位」であることの方が知識として定着しているのかもしれませんね。
そんな千葉県の松戸市で、2020年の8月1日に出されたのが「コロナ緊急人権宣言」です。正式には「新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴う人権尊重緊急宣言」になります。当時の夏休みの頃の状況を思い出してみましょう。国の緊急事態宣言は解除されたものの、感染者数は都市部を中心に再び増加に転じ、依然として予断を許さない状況となっていました。新型コロナウイルス感染症への対応が長期化する中、感染された方やその家族に対して、また、感染リスクにさらされながら人々の健康を守るために最前線で懸命に闘っている医療・介護関係者をはじめとする、社会生活を支えるために日々奮闘している多くの関係者(=エッセンシャルワーカー)やその家族に対して、心無い差別的な発言や偏見に基づくいじめ等が大きな社会問題となっていました。目に見えないウイルスへの不安から、その矛先が目の前にいる人間に向かってしまったのです。感染のリスクは誰にだってあるにもかかわらずです。松戸市では人権尊重と正しい情報と知識に基づいた行動をとることの大切さを、市民にうったえたのでした。
人権は、いかなる場合でも尊重されるべき基本的な権利であり、日本国憲法の三大原則の一つです。誰もが生まれながらにして持っている、人間の尊厳に基づく固有の権利で、自分も、自分以外の人も、すべての人が「人間らしく、自分らしく生きる」ために必要なものです。偏見や思い込みに起因する差別は、この人権にするどく対立するものです。日本では、法務省などが中心となって差別解消に向けた取組を行っています。世界では、国際連合が人権教育の推進を呼びかけています。「世界人権宣言」はご存知でしょうか。「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利とについて平等である」。この有名な文言から始まる世界人権宣言が国連で採択されたのは、1948年12月10日になります。人類が20世紀に二度の世界大戦を経験して、多くの尊い生命を奪い、悲劇と破壊をもたらしたことへの反省から、平和と人権の尊重を推進するために採択されたものです。国連はこの日を「人権デー」と定め、人権尊重を世界にうったえています。日本でも毎年12月4日から10日の一週間を「人権週間」として、全国各地でさまざまな啓発事業を実施していますよ。
歴史上、感染症は人類が繰り返し直面してきた大きな脅威です。日本も例外ではありません。奈良の大仏を建立した聖武天皇の天平時代は、天然痘の大流行期でもありました。大宝律令の編纂に携わった藤原不比等の四人の息子たちが、そろって病死したのもこの時期です。聖武天皇は疫病を鎮める目的もあって大仏を建立しました。そうした伝統を現代にも引き継ぐ東大寺では、新型コロナウイルス早期終息と罹患した方々の早期回復、感染により亡くなられた方々の追福菩提のために祈りを捧げ続けていましたよ。ようやく「感染症の終息」のめどがたってきましたが、感染症に関する「差別・偏見やいじめ等のない」世の中にむけては、これからも目指していかなければなりませんね。
2023.03.23
ひきこもり支援宣言
岡山県総社市「ひきこもり支援宣言」
今回取り上げるのは岡山県総社市の市長さんが提唱した宣言です。令和元年の8月26日に「全国ひきこもり支援基礎自治体サミット」が総社市で開催され、群馬県安中市長と愛知県豊明市長と滋賀県守山市長と山口県宇部市長と岡山県総社市長の5名による共同宣言が発表されました。「ひきこもり支援基礎自治体宣言書」にそろって署名したのです。そこには「わたしたちは、すべての人々に寄り添う自治体となることを目指し、家族会、当事者の会、福祉関係者とともに、ひきこもり支援に果敢に取り組むことを宣言します」と記されています。呼びかけ人である総社市の片岡聡一市長に直接お会いしてお話を伺う機会がありましたので、宣言の意図もふくめて皆さんに紹介してみたいと思います。
さて、岡山県総社市といって、具体的に思い浮かぶものがありますでしょうか?首都圏に在住する皆さんにとって「中国地方」というのはイメージしにくいところかもしれませんね。近畿圏に在住する小学生が「関東甲信越」といわれてもピンとこないように、普段から接している情報にはどうしても地域差がありますから。それでも最近は岡山県のPR大使も務める人気お笑い芸人さんがテレビで活躍していますので、「岡山弁」を耳にしたこともあるのではないでしょうか。「おかやま晴れの国大使」として岡山県の魅力を発信していますよ。「晴れの国」というのは、温暖少雨で晴天に恵まれた瀬戸内式気候に属する岡山県のイメージなのです。
総社市は岡山県南西部の内陸に位置しています。東は岡山市と、南では倉敷市とも接していますよ。北から南を貫いて流れている高梁川は、岡山県の流域面積第1位となる一級河川で、吉備高原を通って流れてきます。「吉備」というのは現在でも岡山県の通称とされ、この地方は古代から吉備国として栄えていました。「吉備という語感がたまらなく好きである」と言っていたのは作家の司馬遼太郎さんで、岡山のことを「桃太郎の末裔たちの国」とも表現しています。吉備団子といえば岡山県の郷土菓子ですよね。桃太郎に登場することでも有名です。この童話「桃太郎」の原型となった「鬼退治伝説」が、吉備では伝えられてきたのです。「古代、吉備には温羅(うら)という鬼がいました。温羅は鬼城山を居城として村人を襲い、悪事を重ねていました。そこで、大和の王は吉備津彦命に温羅を退治するよう命じました。吉備津彦命は、吉備の中山に陣を構え、巨石の楯を築き守りを固め、一方、温羅も城から弓矢で迎え撃ちます。そして激しい戦いの末、傷を負った温羅は鯉に化けて逃走し、吉備津彦命は鵜に変身して温羅を捕まえ退治しました。」この伝説の舞台となっているのが、総社市に点在する史跡群なのです。「古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語」として「桃太郎伝説の生まれたまち おかやま」が日本遺産に認定されたのは平成30年5月のことです。日本遺産というのは、地域の歴史的魅力や特色を通じて、日本文化や伝統を語る「ストーリー(物語)」を文化庁が認定する制度で、さまざまな文化財を国内外に発信することで地域の活性化を図ることを目的としています。これまで保存を重視してきた文化財を、活用することに力点を置いた制度なのですよ。
ちなみに総社市では、買い物や通院のために出かけるときに電話予約をすると、ワンボックスカーが自宅などに迎えに来てくれて希望する目的地まで送ってくれるという公共の乗り物があります。その名も「雪舟くん」です。なぜ雪舟かというと、室町時代に水墨画を文化の域にまで大成させた、雪舟の生誕の地が総社市だからです。お寺で修業をしていた雪舟が、絵ばかり描くのでしかられて、柱にしばりつけられて泣いていたときに、それでも足の指を使って涙でネズミの絵を描いていたという話は有名ですよね。その逸話が残るのも、総社市にある宝福寺なのです。
閑話休題、「ひきこもり支援宣言」です。「8050問題」という言葉をご存知でしょうか。80代の親が50代の子どもの生活を支えているという問題です。背景にあるのは子どもの「ひきこもり」です。ひきこもりという言葉が社会に広がりはじめた頃は「若者の問題」とされていました。それから約30年が経過して、当時の若者が50代に、その親が80代となり、ひきこもりの長期化と高齢化が進んでいます。この「8050問題」に取り組む先進自治体の一つが、平成29年に「ひきこもり支援センター」を開設した総社市なのです。
「小中学校時代の不登校は市の担当、高校生のひきこもりは県の担当、社会人のひきこもりは国の担当なんていう縦割りでは対応できない」と、片岡市長はおっしゃいます。ひきこもりの定義が「義務教育終了後であって、おおむね6ヶ月間以上、社会から孤立した状態にある」というのでは、義務教育期間を担当する市の役割が限られてしまいます。厚生労働省がひきこもり支援として打ち出した生活困窮者自立支援制度も、就労支援の側面が強く、支援の条件に当てはまらない人たちには行き届かないこともあります。住民に最も身近な基礎自治体が、ひきこもりの窓口にならなくては「すべての人々に寄り添う」ことはかないません。「制度の狭間に入りこんでしまい、自ら支援を求めることが難しい人を、支援につなげることこそ政治の役割だ」と、片岡市長はおっしゃいます。地域共生社会の実現に向けて、社会のひずみに光を当てることが、社会全体に安心感を広げることにもなるはずである、という信念が感じられましたよ。
今回取り上げるのは岡山県総社市の市長さんが提唱した宣言です。令和元年の8月26日に「全国ひきこもり支援基礎自治体サミット」が総社市で開催され、群馬県安中市長と愛知県豊明市長と滋賀県守山市長と山口県宇部市長と岡山県総社市長の5名による共同宣言が発表されました。「ひきこもり支援基礎自治体宣言書」にそろって署名したのです。そこには「わたしたちは、すべての人々に寄り添う自治体となることを目指し、家族会、当事者の会、福祉関係者とともに、ひきこもり支援に果敢に取り組むことを宣言します」と記されています。呼びかけ人である総社市の片岡聡一市長に直接お会いしてお話を伺う機会がありましたので、宣言の意図もふくめて皆さんに紹介してみたいと思います。
さて、岡山県総社市といって、具体的に思い浮かぶものがありますでしょうか?首都圏に在住する皆さんにとって「中国地方」というのはイメージしにくいところかもしれませんね。近畿圏に在住する小学生が「関東甲信越」といわれてもピンとこないように、普段から接している情報にはどうしても地域差がありますから。それでも最近は岡山県のPR大使も務める人気お笑い芸人さんがテレビで活躍していますので、「岡山弁」を耳にしたこともあるのではないでしょうか。「おかやま晴れの国大使」として岡山県の魅力を発信していますよ。「晴れの国」というのは、温暖少雨で晴天に恵まれた瀬戸内式気候に属する岡山県のイメージなのです。
総社市は岡山県南西部の内陸に位置しています。東は岡山市と、南では倉敷市とも接していますよ。北から南を貫いて流れている高梁川は、岡山県の流域面積第1位となる一級河川で、吉備高原を通って流れてきます。「吉備」というのは現在でも岡山県の通称とされ、この地方は古代から吉備国として栄えていました。「吉備という語感がたまらなく好きである」と言っていたのは作家の司馬遼太郎さんで、岡山のことを「桃太郎の末裔たちの国」とも表現しています。吉備団子といえば岡山県の郷土菓子ですよね。桃太郎に登場することでも有名です。この童話「桃太郎」の原型となった「鬼退治伝説」が、吉備では伝えられてきたのです。「古代、吉備には温羅(うら)という鬼がいました。温羅は鬼城山を居城として村人を襲い、悪事を重ねていました。そこで、大和の王は吉備津彦命に温羅を退治するよう命じました。吉備津彦命は、吉備の中山に陣を構え、巨石の楯を築き守りを固め、一方、温羅も城から弓矢で迎え撃ちます。そして激しい戦いの末、傷を負った温羅は鯉に化けて逃走し、吉備津彦命は鵜に変身して温羅を捕まえ退治しました。」この伝説の舞台となっているのが、総社市に点在する史跡群なのです。「古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語」として「桃太郎伝説の生まれたまち おかやま」が日本遺産に認定されたのは平成30年5月のことです。日本遺産というのは、地域の歴史的魅力や特色を通じて、日本文化や伝統を語る「ストーリー(物語)」を文化庁が認定する制度で、さまざまな文化財を国内外に発信することで地域の活性化を図ることを目的としています。これまで保存を重視してきた文化財を、活用することに力点を置いた制度なのですよ。
ちなみに総社市では、買い物や通院のために出かけるときに電話予約をすると、ワンボックスカーが自宅などに迎えに来てくれて希望する目的地まで送ってくれるという公共の乗り物があります。その名も「雪舟くん」です。なぜ雪舟かというと、室町時代に水墨画を文化の域にまで大成させた、雪舟の生誕の地が総社市だからです。お寺で修業をしていた雪舟が、絵ばかり描くのでしかられて、柱にしばりつけられて泣いていたときに、それでも足の指を使って涙でネズミの絵を描いていたという話は有名ですよね。その逸話が残るのも、総社市にある宝福寺なのです。
閑話休題、「ひきこもり支援宣言」です。「8050問題」という言葉をご存知でしょうか。80代の親が50代の子どもの生活を支えているという問題です。背景にあるのは子どもの「ひきこもり」です。ひきこもりという言葉が社会に広がりはじめた頃は「若者の問題」とされていました。それから約30年が経過して、当時の若者が50代に、その親が80代となり、ひきこもりの長期化と高齢化が進んでいます。この「8050問題」に取り組む先進自治体の一つが、平成29年に「ひきこもり支援センター」を開設した総社市なのです。
「小中学校時代の不登校は市の担当、高校生のひきこもりは県の担当、社会人のひきこもりは国の担当なんていう縦割りでは対応できない」と、片岡市長はおっしゃいます。ひきこもりの定義が「義務教育終了後であって、おおむね6ヶ月間以上、社会から孤立した状態にある」というのでは、義務教育期間を担当する市の役割が限られてしまいます。厚生労働省がひきこもり支援として打ち出した生活困窮者自立支援制度も、就労支援の側面が強く、支援の条件に当てはまらない人たちには行き届かないこともあります。住民に最も身近な基礎自治体が、ひきこもりの窓口にならなくては「すべての人々に寄り添う」ことはかないません。「制度の狭間に入りこんでしまい、自ら支援を求めることが難しい人を、支援につなげることこそ政治の役割だ」と、片岡市長はおっしゃいます。地域共生社会の実現に向けて、社会のひずみに光を当てることが、社会全体に安心感を広げることにもなるはずである、という信念が感じられましたよ。
2023.03.19
気候非常事態宣言
長崎県壱岐市「気候非常事態宣言」
今回紹介するのは長崎県壱岐市で制定された宣言になります。いつもは「条例」を取り上げていますが、今回は「宣言」です。では宣言というのは何でしょうか?自治体の出す宣言は「都市宣言」とも呼ばれ、特定のテーマについて、その自治体がどのように取り組もうとしているのかを示すものになります。例えば、モータリゼーション(自動車が生活必需品として普及すること)が進展し、それに伴う交通死亡事故が増加した時代には、全国各都市で「交通安全都市宣言」が制定されました。また、世界的に平和運動が広がりをみせた時代には、「非核都市宣言」「平和都市宣言」などが多くの自治体で制定されました。
地方議会が議決すべきことがら(議決事件といいます)を定めている地方自治法第 96 条では、宣言は議決事件とはなっていません。ですが、自治体が重視している地域課題を表現するとともに、それに対して積極的に取り組もうとしていることを表明するのが宣言ですから、議会の議決を前提にしている例も多いのです。今回紹介する、日本で初となる「気候非常事態宣言」も、議決によって制定されました。2019年の9月25日、壱岐市議会において可決、承認されたのです。
エメラルドグリーンの海、新鮮な魚介類。九州の北西沖に浮かぶ島、長崎県壱岐市は観光地としても人気のスポットです。壱岐の周辺は玄界灘とよばれる海域で世界有数の漁場でもあります。対馬海流が流れているため気温の変化は緩やかであり、年間を通して多くの観光客が訪れます。壱岐へのアクセスは、佐賀県の唐津東港からは42km、福岡県の博多港からは76km、同じ長崎県の対馬の厳原からは68km、長崎空港からは94kmになります。ですから長崎県の壱岐ではありますが、佐賀県に一番近いところに位置しているともいえます。またフェリーの便数が最も多いのは博多港からで、長崎港からはフェリーは出ていません。アクセスの起点は福岡県だともいえます。では、なぜ壱岐市が長崎県に所属しているのでしょうか。さかのぼること明治時代、それは廃藩置県に起因します。壱岐は江戸時代には平戸藩に所属しており、平戸藩が長崎県に編入されたことから壱岐も長崎に同時に編入されたということのようです。
さらに歴史をさかのぼると、壱岐は大変な危機を迎えたことがありました。時は鎌倉時代、元寇とよばれる「国難」に直面しました。文永・弘安の役ともいわれ、当時の資料的表現では「蒙古襲来」ということになります。ユーラシア大陸史上最大の国土を保有したモンゴル帝国が、朝鮮半島を通じて日本に攻め込もうとしてきました。その侵攻の順路となったのが壱岐なのです。壱岐には元の大軍が上陸しました。当時の島民のほとんどが殺害されたといいます。壱岐の芦辺港の近くには、馬に乗った若武者の像が立てられています。その人物の名は少弐資時、19歳にして壱岐をまもって戦死した武人です。壱岐神社では今も島の守護神として祀られています。資時の父である少弐経資は、鎮西御家人を指揮して異国警固番役を勤め、元寇に際しては軍事最高責任者として防戦に活躍した人物です。
さて、そうした歴史をもつ壱岐で制定されたのが「気候非常事態宣言」です。この宣言を世界で最初に制定したのは、オーストラリアにあるデアビン市になります。2016年に議決されました。その後、欧米を中心に拡大し、現在では世界中で2000をこえる国や地域、組織が宣言を出しています。では、壱岐市が全国に先駆けて宣言を出したきっかけは何だったのでしょうか。壱岐市総務部 SDGs未来課にお話を伺いました。
「壱岐市が気候非常事態宣言を出した背景には、まず気候変動による自然災害が顕著になってきたことがあります。さらに、海水温の上昇により魚の住処となる藻場が大幅に減少しており、2017年の漁獲量を10年前と比較すると6割も減少したことになります。漁業を主な産業とする壱岐市にとっては大打撃で、藻場を回復させる取り組みも行っていますが、気候変動問題を解決しなければ根本的な解決はできないと考えました」とおっしゃいます。環境面だけではなく、地域の経済面にも影響を及ぼしつつあることが今回の宣言につながったのだといえるでしょう。宣言文では、2050年までにCO2排出量を実質的にゼロにすることが打ち出されました。その方策としては、再生可能エネルギーの活用、省エネルギー、そして4Rの推進をあげています。4Rとは、リフューズ(REFUSE)・リデュース(REDUCE)・リユース(REUSE)・ リサイクル(RECYCLE)の4つの英語の頭文字「R」をとったものです。ごみを減らして、環境にやさしい社会をつくるキーワードになっています。
しかしながら、気候変動の問題を一自治体だけで解決することは困難です。そのため宣言は「日本政府や他の地方自治体に、気候非常事態宣言についての連携を広く呼びかけます」という一文で結ばれています。「宣言を機に市民の関心を高め、さらには、SDGs未来都市に選定された自治体などとも連携しながら取り組みをすすめていきたいです」と語ってくださいました。
壱岐市の気候非常事態宣言が出された二日前、ニューヨークの国連本部で行われた演説で当時16歳のグレタ・トゥンベリさんが「温暖化対策に失敗すれば、あなたたちを決して許さない」と、各国首脳に対して訴えました。国連のグテレス事務総長が主催して開かれた「気候行動サミット」においてです。将来世代を守るためには行動をおこさなくてはなりません。連携を呼びかける気候非常事態宣言は、将来世代への返答の一つなのかもしれません。
今回紹介するのは長崎県壱岐市で制定された宣言になります。いつもは「条例」を取り上げていますが、今回は「宣言」です。では宣言というのは何でしょうか?自治体の出す宣言は「都市宣言」とも呼ばれ、特定のテーマについて、その自治体がどのように取り組もうとしているのかを示すものになります。例えば、モータリゼーション(自動車が生活必需品として普及すること)が進展し、それに伴う交通死亡事故が増加した時代には、全国各都市で「交通安全都市宣言」が制定されました。また、世界的に平和運動が広がりをみせた時代には、「非核都市宣言」「平和都市宣言」などが多くの自治体で制定されました。
地方議会が議決すべきことがら(議決事件といいます)を定めている地方自治法第 96 条では、宣言は議決事件とはなっていません。ですが、自治体が重視している地域課題を表現するとともに、それに対して積極的に取り組もうとしていることを表明するのが宣言ですから、議会の議決を前提にしている例も多いのです。今回紹介する、日本で初となる「気候非常事態宣言」も、議決によって制定されました。2019年の9月25日、壱岐市議会において可決、承認されたのです。
エメラルドグリーンの海、新鮮な魚介類。九州の北西沖に浮かぶ島、長崎県壱岐市は観光地としても人気のスポットです。壱岐の周辺は玄界灘とよばれる海域で世界有数の漁場でもあります。対馬海流が流れているため気温の変化は緩やかであり、年間を通して多くの観光客が訪れます。壱岐へのアクセスは、佐賀県の唐津東港からは42km、福岡県の博多港からは76km、同じ長崎県の対馬の厳原からは68km、長崎空港からは94kmになります。ですから長崎県の壱岐ではありますが、佐賀県に一番近いところに位置しているともいえます。またフェリーの便数が最も多いのは博多港からで、長崎港からはフェリーは出ていません。アクセスの起点は福岡県だともいえます。では、なぜ壱岐市が長崎県に所属しているのでしょうか。さかのぼること明治時代、それは廃藩置県に起因します。壱岐は江戸時代には平戸藩に所属しており、平戸藩が長崎県に編入されたことから壱岐も長崎に同時に編入されたということのようです。
さらに歴史をさかのぼると、壱岐は大変な危機を迎えたことがありました。時は鎌倉時代、元寇とよばれる「国難」に直面しました。文永・弘安の役ともいわれ、当時の資料的表現では「蒙古襲来」ということになります。ユーラシア大陸史上最大の国土を保有したモンゴル帝国が、朝鮮半島を通じて日本に攻め込もうとしてきました。その侵攻の順路となったのが壱岐なのです。壱岐には元の大軍が上陸しました。当時の島民のほとんどが殺害されたといいます。壱岐の芦辺港の近くには、馬に乗った若武者の像が立てられています。その人物の名は少弐資時、19歳にして壱岐をまもって戦死した武人です。壱岐神社では今も島の守護神として祀られています。資時の父である少弐経資は、鎮西御家人を指揮して異国警固番役を勤め、元寇に際しては軍事最高責任者として防戦に活躍した人物です。
さて、そうした歴史をもつ壱岐で制定されたのが「気候非常事態宣言」です。この宣言を世界で最初に制定したのは、オーストラリアにあるデアビン市になります。2016年に議決されました。その後、欧米を中心に拡大し、現在では世界中で2000をこえる国や地域、組織が宣言を出しています。では、壱岐市が全国に先駆けて宣言を出したきっかけは何だったのでしょうか。壱岐市総務部 SDGs未来課にお話を伺いました。
「壱岐市が気候非常事態宣言を出した背景には、まず気候変動による自然災害が顕著になってきたことがあります。さらに、海水温の上昇により魚の住処となる藻場が大幅に減少しており、2017年の漁獲量を10年前と比較すると6割も減少したことになります。漁業を主な産業とする壱岐市にとっては大打撃で、藻場を回復させる取り組みも行っていますが、気候変動問題を解決しなければ根本的な解決はできないと考えました」とおっしゃいます。環境面だけではなく、地域の経済面にも影響を及ぼしつつあることが今回の宣言につながったのだといえるでしょう。宣言文では、2050年までにCO2排出量を実質的にゼロにすることが打ち出されました。その方策としては、再生可能エネルギーの活用、省エネルギー、そして4Rの推進をあげています。4Rとは、リフューズ(REFUSE)・リデュース(REDUCE)・リユース(REUSE)・ リサイクル(RECYCLE)の4つの英語の頭文字「R」をとったものです。ごみを減らして、環境にやさしい社会をつくるキーワードになっています。
しかしながら、気候変動の問題を一自治体だけで解決することは困難です。そのため宣言は「日本政府や他の地方自治体に、気候非常事態宣言についての連携を広く呼びかけます」という一文で結ばれています。「宣言を機に市民の関心を高め、さらには、SDGs未来都市に選定された自治体などとも連携しながら取り組みをすすめていきたいです」と語ってくださいました。
壱岐市の気候非常事態宣言が出された二日前、ニューヨークの国連本部で行われた演説で当時16歳のグレタ・トゥンベリさんが「温暖化対策に失敗すれば、あなたたちを決して許さない」と、各国首脳に対して訴えました。国連のグテレス事務総長が主催して開かれた「気候行動サミット」においてです。将来世代を守るためには行動をおこさなくてはなりません。連携を呼びかける気候非常事態宣言は、将来世代への返答の一つなのかもしれません。
2023.03.09
筆の日条例
広島県熊野町「筆の日条例」
今回紹介するのは広島県熊野町で制定された条例になります。さて皆さんは「熊野」という地名を聞くと何を思い浮かべるでしょうか?全国に3000社ほどもあるといわれているのが「熊野神社」です。どこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか。東京23区でも、板橋区・新宿区・渋谷区・目黒区・葛飾区には比較的大きな熊野神社があります。それ以外にも小さな熊野神社はたくさんありますよね。私も幼い頃、屋台が並ぶ縁日には、近所の熊野神社に友達と集まっていました。そんな全国の「熊野神社」の総本宮にあたるのが「熊野三山」と呼ばれる「熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社」の三つの大きな神社です。この熊野三山にお参りするために古くから整備されてきたのが「熊野古道」ですよね。ユネスコの世界遺産にも登録されていて、「歩ける世界遺産」として多くの旅行客を国内外から集めています。
「熊野」といえば、一般的に「熊野三山」のある和歌山県南部の地域を指している、と考えておけばいいでしょうか。それでも全国に熊野神社はありますので、ゆかりのある自治体(市区町村)として「熊野」を名乗っているところは多いのではないかと思ったのですが、実は全国に二つしかありません。一つはもちろん今回取り上げた広島県の熊野町です。熊野町にも当然、熊野神社がありますよ。ではあと残りの一つは?やはり和歌山県南部に熊野市があると思いますよね。残念?でした、正解は三重県の熊野市になります。「えっ?」と思ったのと同様に、1954年(昭和29年)に熊野市の市名が決定した際には、隣接する新宮市など和歌山県側から多くの反対があったと伝えられています。熊野本宮大社は田辺市、熊野速玉大社は新宮市、熊野那智大社は那智勝浦町、いずれも和歌山県にありますから。しかし、三重県も熊野灘に面しており、熊野川が流れていて、吉野熊野国立公園の区域にもなっていますので、「熊野」とは「和歌山県南部から三重県南部にまたがる地域名」だという解釈で、はれて熊野市となったのでした。広島県熊野町と三重県熊野市は、同じ「熊野」を名称に残す地方自治体として、友好都市協定を締結していますよ。両市町の特産品などをセットにした「ふるさと納税」の返礼品が注目されています。
もう少し「熊野」にまつわる話を続けますね。「蟻の熊野詣」という言葉を知っていますか?エサを見つけたアリの集団が、巣とエサの間に行列を作って行き来している様子をイメージしてください。そんな「密集した大行列」にたとえられるほど、熊野古道を大勢の人々が列をなして熊野三山に参詣していたというのです。平安時代末期、末法思想(災厄と争いで世界は滅びに向かうという考え)のはびこる不安な時代に、人々が救いを求めたのが浄土信仰でした。阿弥陀如来が極楽浄土に導いてくれるというものです。阿弥陀如来を本尊とする仏堂である「阿弥陀堂」がさかんにつくられましたね。平等院鳳凰堂もその一つですよ。そして熊野本宮の神様の本来の姿が阿弥陀如来であるという考え(「本地垂迹」といいます。もとは仏教の仏様が(=本地)、日本では神社の神様として現れた(=垂迹)という考え)が広まるにつれ、熊野はまさに「浄土の地」であるとみなされるようになったのです。人々はこぞって、そして何度も、熊野の地を訪れたのでした。有名なところでは後白河上皇が34回も参詣したといいます。また後鳥羽上皇も、数では負けていますが(28回)、平均10ヵ月に1度という参詣の頻度だったといいますよ。
さて広島県の熊野町についてです。北は広島市、南は呉市に接しています。広島市街地からは東南に約12㎞の地点です。山陽新幹線の線路に沿って、広島駅から12㎞といえばわかりやすいでしょうか。日本最大の筆生産地で、毛筆や化粧筆の国内シェアは約8割を占めています。江戸時代から作られている伝統的工芸品として「熊野筆」の名称で知られていますよ。知名度が一気に上がったきっかけは国民栄誉賞の記念品として取り上げられたことです。サッカー女子ワールドカップで優勝した日本女子代表チーム「なでしこジャパン」に、熊野の化粧筆が贈られたのでした。ちなみにサッカー日本代表のエンブレムに描かれている三本足の八咫烏(ヤタガラス)は、「熊野」の神様の使いだとされています。古事記や日本書紀にも登場する由緒あるキャラクターなのですよ。
熊野町は「筆の都」を標榜していて「筆を作るだけの町ではなく、筆の文化を広め、自ら筆を使う町を目指していきたい」と意欲的です。そこで制定されたのが、今回紹介する「筆の日を定める条例」なのです。「筆産業の振興と筆づくり技術の継承・発展に尽力した先人に感謝するとともに、筆の歴史と文化の価値を改めて認識し、町、事業者及び町民が連携して、その魅力を全国に発信することにより、筆文化の振興と筆産業の発展を図るため、筆の日を定める」というものです。「筆の日」は春分の日とされました。町を挙げて「書は日本文化の柱」であるという考えを発信していく決意です。熊野町が特に力を入れたのが書道の授業です。学習指導要領では、毛筆を使用する書写は小学校3年生から取り組むことになっていますが、熊野町では小学校低学年(1・2年生)のカリキュラムに独自の「書道科」を取り入れて、毛筆や書の伝統文化に親しませています。もちろん熊野筆を使っての授業です。こうした地域に根差した伝統文化に触れる教育の果たす役割は大きく、ユネスコから「持続可能な発展のための教育」であると認定されました。その後、学習指導要領が改訂され、日本においても「持続可能な社会の創り手」を育てるという理念が明確に示されたこともあり、熊野町の「書道科」の授業は、他の自治体のモデルとなる先駆的な事例として紹介されるようにもなりましたよ。
今回紹介するのは広島県熊野町で制定された条例になります。さて皆さんは「熊野」という地名を聞くと何を思い浮かべるでしょうか?全国に3000社ほどもあるといわれているのが「熊野神社」です。どこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか。東京23区でも、板橋区・新宿区・渋谷区・目黒区・葛飾区には比較的大きな熊野神社があります。それ以外にも小さな熊野神社はたくさんありますよね。私も幼い頃、屋台が並ぶ縁日には、近所の熊野神社に友達と集まっていました。そんな全国の「熊野神社」の総本宮にあたるのが「熊野三山」と呼ばれる「熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社」の三つの大きな神社です。この熊野三山にお参りするために古くから整備されてきたのが「熊野古道」ですよね。ユネスコの世界遺産にも登録されていて、「歩ける世界遺産」として多くの旅行客を国内外から集めています。
「熊野」といえば、一般的に「熊野三山」のある和歌山県南部の地域を指している、と考えておけばいいでしょうか。それでも全国に熊野神社はありますので、ゆかりのある自治体(市区町村)として「熊野」を名乗っているところは多いのではないかと思ったのですが、実は全国に二つしかありません。一つはもちろん今回取り上げた広島県の熊野町です。熊野町にも当然、熊野神社がありますよ。ではあと残りの一つは?やはり和歌山県南部に熊野市があると思いますよね。残念?でした、正解は三重県の熊野市になります。「えっ?」と思ったのと同様に、1954年(昭和29年)に熊野市の市名が決定した際には、隣接する新宮市など和歌山県側から多くの反対があったと伝えられています。熊野本宮大社は田辺市、熊野速玉大社は新宮市、熊野那智大社は那智勝浦町、いずれも和歌山県にありますから。しかし、三重県も熊野灘に面しており、熊野川が流れていて、吉野熊野国立公園の区域にもなっていますので、「熊野」とは「和歌山県南部から三重県南部にまたがる地域名」だという解釈で、はれて熊野市となったのでした。広島県熊野町と三重県熊野市は、同じ「熊野」を名称に残す地方自治体として、友好都市協定を締結していますよ。両市町の特産品などをセットにした「ふるさと納税」の返礼品が注目されています。
もう少し「熊野」にまつわる話を続けますね。「蟻の熊野詣」という言葉を知っていますか?エサを見つけたアリの集団が、巣とエサの間に行列を作って行き来している様子をイメージしてください。そんな「密集した大行列」にたとえられるほど、熊野古道を大勢の人々が列をなして熊野三山に参詣していたというのです。平安時代末期、末法思想(災厄と争いで世界は滅びに向かうという考え)のはびこる不安な時代に、人々が救いを求めたのが浄土信仰でした。阿弥陀如来が極楽浄土に導いてくれるというものです。阿弥陀如来を本尊とする仏堂である「阿弥陀堂」がさかんにつくられましたね。平等院鳳凰堂もその一つですよ。そして熊野本宮の神様の本来の姿が阿弥陀如来であるという考え(「本地垂迹」といいます。もとは仏教の仏様が(=本地)、日本では神社の神様として現れた(=垂迹)という考え)が広まるにつれ、熊野はまさに「浄土の地」であるとみなされるようになったのです。人々はこぞって、そして何度も、熊野の地を訪れたのでした。有名なところでは後白河上皇が34回も参詣したといいます。また後鳥羽上皇も、数では負けていますが(28回)、平均10ヵ月に1度という参詣の頻度だったといいますよ。
さて広島県の熊野町についてです。北は広島市、南は呉市に接しています。広島市街地からは東南に約12㎞の地点です。山陽新幹線の線路に沿って、広島駅から12㎞といえばわかりやすいでしょうか。日本最大の筆生産地で、毛筆や化粧筆の国内シェアは約8割を占めています。江戸時代から作られている伝統的工芸品として「熊野筆」の名称で知られていますよ。知名度が一気に上がったきっかけは国民栄誉賞の記念品として取り上げられたことです。サッカー女子ワールドカップで優勝した日本女子代表チーム「なでしこジャパン」に、熊野の化粧筆が贈られたのでした。ちなみにサッカー日本代表のエンブレムに描かれている三本足の八咫烏(ヤタガラス)は、「熊野」の神様の使いだとされています。古事記や日本書紀にも登場する由緒あるキャラクターなのですよ。
熊野町は「筆の都」を標榜していて「筆を作るだけの町ではなく、筆の文化を広め、自ら筆を使う町を目指していきたい」と意欲的です。そこで制定されたのが、今回紹介する「筆の日を定める条例」なのです。「筆産業の振興と筆づくり技術の継承・発展に尽力した先人に感謝するとともに、筆の歴史と文化の価値を改めて認識し、町、事業者及び町民が連携して、その魅力を全国に発信することにより、筆文化の振興と筆産業の発展を図るため、筆の日を定める」というものです。「筆の日」は春分の日とされました。町を挙げて「書は日本文化の柱」であるという考えを発信していく決意です。熊野町が特に力を入れたのが書道の授業です。学習指導要領では、毛筆を使用する書写は小学校3年生から取り組むことになっていますが、熊野町では小学校低学年(1・2年生)のカリキュラムに独自の「書道科」を取り入れて、毛筆や書の伝統文化に親しませています。もちろん熊野筆を使っての授業です。こうした地域に根差した伝統文化に触れる教育の果たす役割は大きく、ユネスコから「持続可能な発展のための教育」であると認定されました。その後、学習指導要領が改訂され、日本においても「持続可能な社会の創り手」を育てるという理念が明確に示されたこともあり、熊野町の「書道科」の授業は、他の自治体のモデルとなる先駆的な事例として紹介されるようにもなりましたよ。
2023.03.03
お菓子のはじまり条例
和歌山県海南市「お菓子のはじまり条例」
オリンピック期間中も東京では四度目となる緊急事態宣言が出されており、「無観客」の中で競技が行われていました。東京都は「お家で見よう!」とステイホームでの観戦を呼びかけていましたね。夏休み中だった皆さんも、テレビの前で選手たちを応援したことでしょう。外出を控えてお家の中で生活をしようとすると、どうなると思いますか?「家から出ずに生活する際に必要になるもの」を多くの人が求めることになります。これを「巣ごもり需要」といいますよ。この影響で「過去最高益」を更新した企業もあるのです。思いつきますか?お家にこもって趣味を楽しむ時間が増えたことから、「ゲーム・音楽のコンテンツ事業」が好調でした。また、通信販売などでお家への配達を希望する人たちが増えたため、「宅配事業」も好調でした。こうした経済の動きにも注意しておいてくださいね。皆さんにも身近な例をあげると、「手作りお菓子」の材料が、巣ごもり需要の影響で品薄状態になったといわれていますね。具体的にはホットケーキミックスやデザートの素といった製品になります。作る前の状態では保存もきき、家族で一緒に楽しく作るという「お家時間」の過ごし方が、需要を押し上げたようです。
皆さんは「水菓子」と聞くと何を思い浮べるでしょうか。「夏にぴったりの涼しげなお菓子のことです!」と、ゼリーや水ようかんなどをイメージするかもしれませんね。「水分の多いお菓子」という意味で。でもそれは「生菓子」というのが正式な呼び名になります。正式というのは「法律にもとづいて」ということですよ。「出来上がり直後において水分四○%以上を含有する菓子類」というものが食品衛生法上の「生菓子」の定義となります。「何にでも法律は関係してくるのですね!」という理解は正しいです。日常生活のあらゆる場面において、常に法律との関わりはあるものだと心得ておきましょう。「食品衛生法」は、所管する厚生労働省によると「飲食による健康被害の発生を防止するための法律」ということになります。ちなみに2018年に15年ぶりに改正されたこの食品衛生法は、2021年の6月までに「完全施行」となり、全ての食品事業者にはHACCP(ハサップ)と呼ばれる科学的な根拠に基づく衛生管理が求められることになりましたよ。
さて「水菓子」についてでした。辞書を引いてみてください。「果物、フルーツ」と出てきますから。このことが今回取り上げた「条例」に深く関わってくることになります。和歌山県海南市で制定された「お菓子のはじまり条例」です。
正式には「海南市お菓子の振興に関する条例」といいます。2018年の12月に施行されました。条文には次のようにあります。「本市は『お菓子の発祥の地』といえるのである」と。だからこそ「お菓子に関する伝統文化の理解を深め、郷土愛の醸成を図るとともに、地域経済の発展及び地域の振興を図るため」この条例を制定するのである、と。では「お菓子の発祥の地」とはどういうことでしょうか。さらに条文をみてみましょう。「果物は水菓子といわれるように、古くは、菓子と果物とは、意味の違いはなかったものとされる。本市は、みかん、ビワ、桃等の果物の産地としても知られるところであり、日本で最初に植えられた果物の実が先人達の努力により大いに発展し、現在に至っている。これらのことから、本市は『お菓子の発祥の地』といえるのである。」 どうやら「日本で最初に果物が植えられた」のが海南市であるようです。一体どういうことでしょうか?
海南市は和歌山県の北西部に位置する市です。北は和歌山市、南は有田市に隣接し、西は紀伊水道に面しています。温暖な気候に恵まれ、山の頂上近くまで耕された段々畑は柑橘栽培に向き、昔から盛んにみかんが栽培されていました。リアス式海岸の天然の良港である下津港からみかんを各地に運んでいたのです。この下津港にはある石碑が立てられています。江戸時代の元禄期(1688年~1704年)に活躍した豪商、紀伊国屋文左衛門の顕彰碑です。荒れ狂う海の中を、決死の覚悟で江戸までみかんを運び、大きな利益を得たエピソードで知られていますよね。「沖の暗いのに白帆がみえる、あれは紀州のみかん船」と俗謡にうたわれました。紀州、和歌山とみかんの結びつきは強く、農林水産省が行っている「作物統計調査」によると、2020年産のみかん収穫量が多い都道府県は、1位「和歌山県」、2位「静岡県」、3位「愛媛県」となりました。上位3つの都道府県で約50%のみかんが生産されていることになりますよ。では、海南市の条例がいう「果物」は、江戸時代にさかのぼるのでしょうか。いえいえ、「お菓子のはじまり」はさらに古いのです。
日本初の国家による歴史書である「日本書紀」が編纂されたのは、今から1300年前の養老四年(720年)のことでした。先に作られた「古事記」とは異なり、当時の国際語である漢文体を採用し、「紀」と呼ばれる時系列で表記する編年体で書かれていることから、「日本」という国号とともに対外的なアピールを狙ったものとされています。「古事記」のなかに「日本」という名称は出てきませんからね。その「日本書紀」に登場する「田道間守(たじまもり)」が、今回の条例の主人公なのです。第11代垂仁天皇の命により、田道間守が中国に渡り、不老長寿の霊果として橘(たちばな)の木を持ち帰ったと記されています。そして橘が初めて移植されたのが「六本樹の丘」と呼ばれた海南市にある場所なのです。橘は、みかんの原種であるとともに「菓子」の起源とされ、田道間守は、お菓子の神様として崇められるようにもなりました。そんなエピソードから、海南市は「みかん・お菓子発祥の地」を標榜しているのです。「お菓子の聖地となるように官民一体となって地域を盛り上げていきたい!」と意気込んでいますよ。
オリンピック期間中も東京では四度目となる緊急事態宣言が出されており、「無観客」の中で競技が行われていました。東京都は「お家で見よう!」とステイホームでの観戦を呼びかけていましたね。夏休み中だった皆さんも、テレビの前で選手たちを応援したことでしょう。外出を控えてお家の中で生活をしようとすると、どうなると思いますか?「家から出ずに生活する際に必要になるもの」を多くの人が求めることになります。これを「巣ごもり需要」といいますよ。この影響で「過去最高益」を更新した企業もあるのです。思いつきますか?お家にこもって趣味を楽しむ時間が増えたことから、「ゲーム・音楽のコンテンツ事業」が好調でした。また、通信販売などでお家への配達を希望する人たちが増えたため、「宅配事業」も好調でした。こうした経済の動きにも注意しておいてくださいね。皆さんにも身近な例をあげると、「手作りお菓子」の材料が、巣ごもり需要の影響で品薄状態になったといわれていますね。具体的にはホットケーキミックスやデザートの素といった製品になります。作る前の状態では保存もきき、家族で一緒に楽しく作るという「お家時間」の過ごし方が、需要を押し上げたようです。
皆さんは「水菓子」と聞くと何を思い浮べるでしょうか。「夏にぴったりの涼しげなお菓子のことです!」と、ゼリーや水ようかんなどをイメージするかもしれませんね。「水分の多いお菓子」という意味で。でもそれは「生菓子」というのが正式な呼び名になります。正式というのは「法律にもとづいて」ということですよ。「出来上がり直後において水分四○%以上を含有する菓子類」というものが食品衛生法上の「生菓子」の定義となります。「何にでも法律は関係してくるのですね!」という理解は正しいです。日常生活のあらゆる場面において、常に法律との関わりはあるものだと心得ておきましょう。「食品衛生法」は、所管する厚生労働省によると「飲食による健康被害の発生を防止するための法律」ということになります。ちなみに2018年に15年ぶりに改正されたこの食品衛生法は、2021年の6月までに「完全施行」となり、全ての食品事業者にはHACCP(ハサップ)と呼ばれる科学的な根拠に基づく衛生管理が求められることになりましたよ。
さて「水菓子」についてでした。辞書を引いてみてください。「果物、フルーツ」と出てきますから。このことが今回取り上げた「条例」に深く関わってくることになります。和歌山県海南市で制定された「お菓子のはじまり条例」です。
正式には「海南市お菓子の振興に関する条例」といいます。2018年の12月に施行されました。条文には次のようにあります。「本市は『お菓子の発祥の地』といえるのである」と。だからこそ「お菓子に関する伝統文化の理解を深め、郷土愛の醸成を図るとともに、地域経済の発展及び地域の振興を図るため」この条例を制定するのである、と。では「お菓子の発祥の地」とはどういうことでしょうか。さらに条文をみてみましょう。「果物は水菓子といわれるように、古くは、菓子と果物とは、意味の違いはなかったものとされる。本市は、みかん、ビワ、桃等の果物の産地としても知られるところであり、日本で最初に植えられた果物の実が先人達の努力により大いに発展し、現在に至っている。これらのことから、本市は『お菓子の発祥の地』といえるのである。」 どうやら「日本で最初に果物が植えられた」のが海南市であるようです。一体どういうことでしょうか?
海南市は和歌山県の北西部に位置する市です。北は和歌山市、南は有田市に隣接し、西は紀伊水道に面しています。温暖な気候に恵まれ、山の頂上近くまで耕された段々畑は柑橘栽培に向き、昔から盛んにみかんが栽培されていました。リアス式海岸の天然の良港である下津港からみかんを各地に運んでいたのです。この下津港にはある石碑が立てられています。江戸時代の元禄期(1688年~1704年)に活躍した豪商、紀伊国屋文左衛門の顕彰碑です。荒れ狂う海の中を、決死の覚悟で江戸までみかんを運び、大きな利益を得たエピソードで知られていますよね。「沖の暗いのに白帆がみえる、あれは紀州のみかん船」と俗謡にうたわれました。紀州、和歌山とみかんの結びつきは強く、農林水産省が行っている「作物統計調査」によると、2020年産のみかん収穫量が多い都道府県は、1位「和歌山県」、2位「静岡県」、3位「愛媛県」となりました。上位3つの都道府県で約50%のみかんが生産されていることになりますよ。では、海南市の条例がいう「果物」は、江戸時代にさかのぼるのでしょうか。いえいえ、「お菓子のはじまり」はさらに古いのです。
日本初の国家による歴史書である「日本書紀」が編纂されたのは、今から1300年前の養老四年(720年)のことでした。先に作られた「古事記」とは異なり、当時の国際語である漢文体を採用し、「紀」と呼ばれる時系列で表記する編年体で書かれていることから、「日本」という国号とともに対外的なアピールを狙ったものとされています。「古事記」のなかに「日本」という名称は出てきませんからね。その「日本書紀」に登場する「田道間守(たじまもり)」が、今回の条例の主人公なのです。第11代垂仁天皇の命により、田道間守が中国に渡り、不老長寿の霊果として橘(たちばな)の木を持ち帰ったと記されています。そして橘が初めて移植されたのが「六本樹の丘」と呼ばれた海南市にある場所なのです。橘は、みかんの原種であるとともに「菓子」の起源とされ、田道間守は、お菓子の神様として崇められるようにもなりました。そんなエピソードから、海南市は「みかん・お菓子発祥の地」を標榜しているのです。「お菓子の聖地となるように官民一体となって地域を盛り上げていきたい!」と意気込んでいますよ。
2023.02.16
けん玉条例
山形県長井市「けん玉条例」
今回紹介するのは山形県長井市で制定された条例になります。長井市は最上川流域の自治体です。といっても最上川の流域面積は7,040km2で、山形県の面積の約75%を占めています。流路の長さも229kmで、一つの都府県のみを流域とする河川としては日本最長になります。ですから山形県内で「最上川流域の自治体」といっても、多くの自治体がそうですということにしかなりませんよね。では長井市が最上川のどのあたりに位置するのかイメージできますでしょうか?頭の中で山形県の地図を描いてください。人の横顔に見える形ですよね、「鼻」や大きく開けた「口」が特徴的な。その横顔の「目」にあたる部分が庄内平野です。最上川の河口に位置していますよ。そこから上流にさかのぼってみましょう。目から涙を流しているように(流れは逆ですが)見えませんか?新庄盆地で方向を変えて、山形盆地をぬけて、米沢盆地に至ります。長井市は米沢盆地の北に隣接する位置にあるのです。
歴史的にみると、長井は最上川舟運の港町として栄えていました。車も鉄道もない時代、一度にたくさんの荷物を運ぶために利用された交通手段は船です。とりわけ江戸時代には「西廻り海運」と「東廻り海運」で知られる日本各地の港を結ぶ海の航路が開かれて発展しました。天領のあった東北地方の年貢米を将軍の城下町江戸や商業の中心地大坂に運ぶために、4代将軍徳川家綱の時代に整備されたのでしたね。尽力したのが河村瑞賢ですよ。日本海での輸送に活躍した船を北前船ということも覚えておきましょう。最上川河口のまち酒田市の日和山公園には、白い帆が美しい北前船のレプリカが飾られていますよ。日本海に面した一大海運港であった酒田から、最上川を経由して米沢に至る舟運ルートの終着港が長井だったのですね。米沢藩の交易港都市であったといえます。米沢藩の9代藩主である上杉鷹山(名君として知られていますよ。「為せば成る、為さねば成らぬ何事も…」で有名ですよね。)が奨励したことにより発達したのが、この地域の伝統的工芸品である置賜紬(おいたまつむぎ)だということも押えておきましょう。
さて、そんな長井市で制定されたのが「けん玉条例」です。正式な名称は「長井市けん玉を市技に定める条例」になります。令和2年10月1日に施行されました。条文も短いですのでその全文を以下に掲載してみましょう。「けん玉を活用した世界との交流を推進し、けん玉文化の継承を通じて市民の健康づくりや子どもたちの健全育成を図り、けん玉を活かしたまちづくりを推奨するため、けん玉を本市の市技に定める。」になります。「けん玉を長井市の『市技』として定める」というのですが、そもそも「市技」とは何でしょうか?「市を代表する競技」「市の象徴(シンボル)となるような競技」ということでしょう。同様の取り組みとしては、囲碁を市技に定めた広島県尾道市の条例があります。「自治体を象徴する」ということなら、一般的には「市を代表する花」などの自然物がシンボルとして定められる場合が多いといえますね。全国知事会のホームページに各都道府県のシンボルが一覧表で掲載されていますが、47都道府県のシンボルが全てそろっているのは「花」「木」「鳥」くらいになります。一部の県だけなら、「獣」や「魚」や「蝶」などといった例もありますよ。しかしながら、都道府県のレベルでは「技」という項目での指定はありませんでした。やはりめずらしいケースだといえるのでしょう。
ちなみに都道府県の「花」は確認しておくことをおすすめします。例えば、東京都の花は「ソメイヨシノ」(現在の豊島区にあたる染井村で栽培された)です。富山県の花は「チューリップ」(富山県はチューリップの球根の出荷量日本一)です。和歌山県の花は「ウメ」(和歌山県はウメの収穫量日本一)です。「なるほど」と思うものが多いですよね。では山形県の花は何でしょうか?正解は「ベニバナ」です。2021年の2月には、最上川流域の「紅花生産・染色用加工システム」が世界農業遺産(世界的に重要かつ伝統的な農林水産業を営む地域を国連食糧農業機関が認定する制度)に申請されることが決まりましたよ。すでに日本農業遺産(世界農業遺産の国内版として農林水産省が制定した制度)には認定されています。「紅花システム」は「6次産業化の先駆的な事例」としても注目されていることを覚えておきましょう。「6次産業化」とは何でしょうか?6次というのは、農林水産業本来の1次産業だけでなく、2次産業(工業・製造業)と3次産業(販売業・サービス業)を取り込むことから、「1次産業(生産)」×「2次産業(加工)」×「3次産業(流通・販売)」のかけ算で6次になることを意味しています。農山漁村の経済を豊かにしていく取り組みとして農林水産省は力を入れていますよ。紅花を生産するだけでなく、「紅餅」(摘み取った紅花をすりつぶして発酵させ、丸めて平たく成形し、乾燥させたもの)に加工し、さらには最上川の舟運で集められて、北前船によって京都にまで流通・販売がなされていました。こうした世界的にもめずらしい農業システムが評価の対象となっているのです。
閑話休題、「けん玉条例」ですね。長井市には「競技用けん玉」の生産日本一を誇るメーカーがあります。「競技用」というのは、サイズなど厳格な基準を満たさないと認められないものなのだそうです。全国でもあまり類をみない「市技」として定める条例を制定することによって、「けん玉のまち」としての知名度のアップを図り長井市のPRや観光への誘客も目指しているのです。条例制定の理由を説明する際には、市長自らがけん玉の技を披露しながら「けん玉は集中力を高め、健康維持につながる」とアピールしていましたよ。
今回紹介するのは山形県長井市で制定された条例になります。長井市は最上川流域の自治体です。といっても最上川の流域面積は7,040km2で、山形県の面積の約75%を占めています。流路の長さも229kmで、一つの都府県のみを流域とする河川としては日本最長になります。ですから山形県内で「最上川流域の自治体」といっても、多くの自治体がそうですということにしかなりませんよね。では長井市が最上川のどのあたりに位置するのかイメージできますでしょうか?頭の中で山形県の地図を描いてください。人の横顔に見える形ですよね、「鼻」や大きく開けた「口」が特徴的な。その横顔の「目」にあたる部分が庄内平野です。最上川の河口に位置していますよ。そこから上流にさかのぼってみましょう。目から涙を流しているように(流れは逆ですが)見えませんか?新庄盆地で方向を変えて、山形盆地をぬけて、米沢盆地に至ります。長井市は米沢盆地の北に隣接する位置にあるのです。
歴史的にみると、長井は最上川舟運の港町として栄えていました。車も鉄道もない時代、一度にたくさんの荷物を運ぶために利用された交通手段は船です。とりわけ江戸時代には「西廻り海運」と「東廻り海運」で知られる日本各地の港を結ぶ海の航路が開かれて発展しました。天領のあった東北地方の年貢米を将軍の城下町江戸や商業の中心地大坂に運ぶために、4代将軍徳川家綱の時代に整備されたのでしたね。尽力したのが河村瑞賢ですよ。日本海での輸送に活躍した船を北前船ということも覚えておきましょう。最上川河口のまち酒田市の日和山公園には、白い帆が美しい北前船のレプリカが飾られていますよ。日本海に面した一大海運港であった酒田から、最上川を経由して米沢に至る舟運ルートの終着港が長井だったのですね。米沢藩の交易港都市であったといえます。米沢藩の9代藩主である上杉鷹山(名君として知られていますよ。「為せば成る、為さねば成らぬ何事も…」で有名ですよね。)が奨励したことにより発達したのが、この地域の伝統的工芸品である置賜紬(おいたまつむぎ)だということも押えておきましょう。
さて、そんな長井市で制定されたのが「けん玉条例」です。正式な名称は「長井市けん玉を市技に定める条例」になります。令和2年10月1日に施行されました。条文も短いですのでその全文を以下に掲載してみましょう。「けん玉を活用した世界との交流を推進し、けん玉文化の継承を通じて市民の健康づくりや子どもたちの健全育成を図り、けん玉を活かしたまちづくりを推奨するため、けん玉を本市の市技に定める。」になります。「けん玉を長井市の『市技』として定める」というのですが、そもそも「市技」とは何でしょうか?「市を代表する競技」「市の象徴(シンボル)となるような競技」ということでしょう。同様の取り組みとしては、囲碁を市技に定めた広島県尾道市の条例があります。「自治体を象徴する」ということなら、一般的には「市を代表する花」などの自然物がシンボルとして定められる場合が多いといえますね。全国知事会のホームページに各都道府県のシンボルが一覧表で掲載されていますが、47都道府県のシンボルが全てそろっているのは「花」「木」「鳥」くらいになります。一部の県だけなら、「獣」や「魚」や「蝶」などといった例もありますよ。しかしながら、都道府県のレベルでは「技」という項目での指定はありませんでした。やはりめずらしいケースだといえるのでしょう。
ちなみに都道府県の「花」は確認しておくことをおすすめします。例えば、東京都の花は「ソメイヨシノ」(現在の豊島区にあたる染井村で栽培された)です。富山県の花は「チューリップ」(富山県はチューリップの球根の出荷量日本一)です。和歌山県の花は「ウメ」(和歌山県はウメの収穫量日本一)です。「なるほど」と思うものが多いですよね。では山形県の花は何でしょうか?正解は「ベニバナ」です。2021年の2月には、最上川流域の「紅花生産・染色用加工システム」が世界農業遺産(世界的に重要かつ伝統的な農林水産業を営む地域を国連食糧農業機関が認定する制度)に申請されることが決まりましたよ。すでに日本農業遺産(世界農業遺産の国内版として農林水産省が制定した制度)には認定されています。「紅花システム」は「6次産業化の先駆的な事例」としても注目されていることを覚えておきましょう。「6次産業化」とは何でしょうか?6次というのは、農林水産業本来の1次産業だけでなく、2次産業(工業・製造業)と3次産業(販売業・サービス業)を取り込むことから、「1次産業(生産)」×「2次産業(加工)」×「3次産業(流通・販売)」のかけ算で6次になることを意味しています。農山漁村の経済を豊かにしていく取り組みとして農林水産省は力を入れていますよ。紅花を生産するだけでなく、「紅餅」(摘み取った紅花をすりつぶして発酵させ、丸めて平たく成形し、乾燥させたもの)に加工し、さらには最上川の舟運で集められて、北前船によって京都にまで流通・販売がなされていました。こうした世界的にもめずらしい農業システムが評価の対象となっているのです。
閑話休題、「けん玉条例」ですね。長井市には「競技用けん玉」の生産日本一を誇るメーカーがあります。「競技用」というのは、サイズなど厳格な基準を満たさないと認められないものなのだそうです。全国でもあまり類をみない「市技」として定める条例を制定することによって、「けん玉のまち」としての知名度のアップを図り長井市のPRや観光への誘客も目指しているのです。条例制定の理由を説明する際には、市長自らがけん玉の技を披露しながら「けん玉は集中力を高め、健康維持につながる」とアピールしていましたよ。
2023.02.13
まんが美術館条例
秋田県横手市「まんが美術館条例」
今回紹介するのは秋田県横手市で制定された条例になります。横手市は秋田県の南東部に位地し、県庁所在地である秋田市に次いで県内二番目の人口を数える都市です。横手盆地の中央部に位置しており、東の奥羽山脈からは横手川(雄物川水系)が市街地に流れてきています。近年では「横手」といえば「横手焼きそば」が有名ですよね。半熟の目玉焼きがトッピングされているスタイルは皆さんも目にしたことがあるのではないでしょうか。「安くて美味しい地元で愛されている食べ物」という意味合いの「B級ご当地グルメ」として全国的に知られています。有名という点では「横手かまくら」も忘れてはいけませんよね。毎年2月に開催される伝統行事です。「かまくら」というのは、雪をドーム型に固めて中をくりぬいた「雪室(ゆきむろ)」と呼ばれる小部屋のことです。小部屋といってもドームの高さは3mにもなりますよ。その中に祭壇を設けて水神様をお祀りする行事になります。
雪の多いこの地域ですが、では大雪が降る条件というのは何でしょうか?「気温が低いこと」はもちろんそうなのですが、空気中に含まれている「水蒸気の量が多いこと」が重要になります。その水蒸気がタイミングよく冷やされて、大雪となるのです。実は「水蒸気量が多い」ということと「気温が低い」ということは両立しにくいのです。理科の学習内容ですが、温度が低いと空気中に含むことのできる水蒸気量(飽和水蒸気量)は下がるのでしたよね。冬の日本には大陸から冷たく乾燥した北西の季節風が吹きます。これが日本海を通過する際に、暖かい南の海から流れてくる暖流の対馬海流によって、熱と水蒸気を与えられて雲へと発達するのです。その雲が奥羽山脈にぶつかるようにして高い位置へと運ばれて冷やされ、雪となって降り注ぐことになるのです。
横手市は国から特別豪雪地帯の指定を受けています。これは豪雪地帯対策特別措置法に基づいた指定で「積雪の度が特に高く、かつ、積雪により長期間自動車の交通が途絶する等により住民の生活に著しい支障を生ずる地域」にあたるというのです。さて「特別措置法」とはどういった法律なのでしょうか?法律は国会によって定められ国全体に適用されるものです。ところが、ここでのケースのように「大雪が積もる地域」にだけ適用する必要が出てくる場合があるのです。適用対象が特定され、期間や目的などを限って集中的に対処するために特別に制定される法律を「特別措置法」というのですよ。これに基づいて横手市では「横手市総合雪対策基本計画」が定められています。
また、現在の横手市が舞台となった歴史的な「合戦」も覚えておきましょう。11世紀の平安時代に起きた「後三年合戦」です。当時奥羽二州(陸奥国と出羽国)に勢力を強めていた清原氏の内紛(後継者争い)に、源氏の棟梁である源義家が介入して起こりました。日本の歴史上、古代と中世の分かれ目になるという注目すべき合戦なのです。勝利した清原(藤原)清衡は、その後平泉に移って奥州藤原氏の基礎を築きました。中尊寺金色堂(清衡の建立)を含む平泉の文化遺産は世界文化遺産に登録されていますね。また、この合戦を平定した源義家は結果的に東国武士との主従関係を強化することになり、中世武家社会誕生のきっかけともなったといわれています。
そんな横手市で制定されたのが今回取り上げた「まんが美術館条例」になります。正式名称は「横手市増田まんが美術館設置条例」です。令和2年1月1日に施行されました。「まんが」と「美術館」という結びつきを、皆さんは不思議に思うかもしれませんね。ところが、世界一の来館者数を誇っているパリのルーブル美術館でも「まんが」は重視されているのですよ!なんとルーブル美術館では、建築、彫刻、絵画、音楽、文学、演劇、映画、メディア芸術に次ぐ「第9の芸術」として「まんが」が位置づけられているのです。また、「日本最古のまんが」とも称されている作品はご存知でしょうか?声援をおくるウサギたち、ウサギを投げ飛ばして気を吐くカエル、投げ飛ばされて仰向けにひっくり返るウサギ、それを見て笑い転げるカエルたち。ウサギとカエルが相撲をとっている場面ですよ。紙本墨画の絵巻物で国宝に指定されている「鳥獣人物戯画」になります。動物の息づかいまで伝わってくるようです。東京国立博物館でも公開されていましたよね。
横手市が「まんが美術館」を設置した目的は「市民の文化意識の醸成、マンガ文化の振興並びにマンガ原画の保存及び継承に寄与し、マンガ文化をまちづくりに活用しながら一層の地域活性化を図るため」とあります。そもそものきっかけは、横手市出身の漫画家である矢口高雄さんの偉業を記念するための施設としてのスタートだったのですが、より広く「まんが」をテーマにした美術館としてリニューアルを果たしたのです。リニューアルオープンに寄せて初代名誉館長に就任した矢口高雄さんは次のように発言しています。「世界に類例を見ない大発展を遂げて来た日本のマンガ文化」は「クールジャパンの代表格のように海外の人々から注目されている」と。貴重な「マンガ原画の収蔵」と、その「アーカイブ化」(デジタル化して保存)という事業に、美術館として本格的に取り組むことを漫画家として求めていらっしゃいます。
「クールジャパン」とは「外国人がクール(かっこいい)ととらえる日本の魅力」のことです。国も日本のポップカルチャーを形成してきた文化産業が、海外展開することを支援したり、また人材育成や知的財産の保護などを図ったり、官民一体の事業を展開しています。クールジャパン戦略担当大臣も置かれているのですよ!内閣府にだけ置かれる特命担当大臣です。内閣の重要政策に関する企画立案・総合調整を強力かつ迅速に行うことを使命としています。日本のみならず「まんが」に興味を持つ世界中の人たちが、「まんが美術館」で楽しく鑑賞ができるように、クールジャパン戦略の発展的な継続を望むところです。
今回紹介するのは秋田県横手市で制定された条例になります。横手市は秋田県の南東部に位地し、県庁所在地である秋田市に次いで県内二番目の人口を数える都市です。横手盆地の中央部に位置しており、東の奥羽山脈からは横手川(雄物川水系)が市街地に流れてきています。近年では「横手」といえば「横手焼きそば」が有名ですよね。半熟の目玉焼きがトッピングされているスタイルは皆さんも目にしたことがあるのではないでしょうか。「安くて美味しい地元で愛されている食べ物」という意味合いの「B級ご当地グルメ」として全国的に知られています。有名という点では「横手かまくら」も忘れてはいけませんよね。毎年2月に開催される伝統行事です。「かまくら」というのは、雪をドーム型に固めて中をくりぬいた「雪室(ゆきむろ)」と呼ばれる小部屋のことです。小部屋といってもドームの高さは3mにもなりますよ。その中に祭壇を設けて水神様をお祀りする行事になります。
雪の多いこの地域ですが、では大雪が降る条件というのは何でしょうか?「気温が低いこと」はもちろんそうなのですが、空気中に含まれている「水蒸気の量が多いこと」が重要になります。その水蒸気がタイミングよく冷やされて、大雪となるのです。実は「水蒸気量が多い」ということと「気温が低い」ということは両立しにくいのです。理科の学習内容ですが、温度が低いと空気中に含むことのできる水蒸気量(飽和水蒸気量)は下がるのでしたよね。冬の日本には大陸から冷たく乾燥した北西の季節風が吹きます。これが日本海を通過する際に、暖かい南の海から流れてくる暖流の対馬海流によって、熱と水蒸気を与えられて雲へと発達するのです。その雲が奥羽山脈にぶつかるようにして高い位置へと運ばれて冷やされ、雪となって降り注ぐことになるのです。
横手市は国から特別豪雪地帯の指定を受けています。これは豪雪地帯対策特別措置法に基づいた指定で「積雪の度が特に高く、かつ、積雪により長期間自動車の交通が途絶する等により住民の生活に著しい支障を生ずる地域」にあたるというのです。さて「特別措置法」とはどういった法律なのでしょうか?法律は国会によって定められ国全体に適用されるものです。ところが、ここでのケースのように「大雪が積もる地域」にだけ適用する必要が出てくる場合があるのです。適用対象が特定され、期間や目的などを限って集中的に対処するために特別に制定される法律を「特別措置法」というのですよ。これに基づいて横手市では「横手市総合雪対策基本計画」が定められています。
また、現在の横手市が舞台となった歴史的な「合戦」も覚えておきましょう。11世紀の平安時代に起きた「後三年合戦」です。当時奥羽二州(陸奥国と出羽国)に勢力を強めていた清原氏の内紛(後継者争い)に、源氏の棟梁である源義家が介入して起こりました。日本の歴史上、古代と中世の分かれ目になるという注目すべき合戦なのです。勝利した清原(藤原)清衡は、その後平泉に移って奥州藤原氏の基礎を築きました。中尊寺金色堂(清衡の建立)を含む平泉の文化遺産は世界文化遺産に登録されていますね。また、この合戦を平定した源義家は結果的に東国武士との主従関係を強化することになり、中世武家社会誕生のきっかけともなったといわれています。
そんな横手市で制定されたのが今回取り上げた「まんが美術館条例」になります。正式名称は「横手市増田まんが美術館設置条例」です。令和2年1月1日に施行されました。「まんが」と「美術館」という結びつきを、皆さんは不思議に思うかもしれませんね。ところが、世界一の来館者数を誇っているパリのルーブル美術館でも「まんが」は重視されているのですよ!なんとルーブル美術館では、建築、彫刻、絵画、音楽、文学、演劇、映画、メディア芸術に次ぐ「第9の芸術」として「まんが」が位置づけられているのです。また、「日本最古のまんが」とも称されている作品はご存知でしょうか?声援をおくるウサギたち、ウサギを投げ飛ばして気を吐くカエル、投げ飛ばされて仰向けにひっくり返るウサギ、それを見て笑い転げるカエルたち。ウサギとカエルが相撲をとっている場面ですよ。紙本墨画の絵巻物で国宝に指定されている「鳥獣人物戯画」になります。動物の息づかいまで伝わってくるようです。東京国立博物館でも公開されていましたよね。
横手市が「まんが美術館」を設置した目的は「市民の文化意識の醸成、マンガ文化の振興並びにマンガ原画の保存及び継承に寄与し、マンガ文化をまちづくりに活用しながら一層の地域活性化を図るため」とあります。そもそものきっかけは、横手市出身の漫画家である矢口高雄さんの偉業を記念するための施設としてのスタートだったのですが、より広く「まんが」をテーマにした美術館としてリニューアルを果たしたのです。リニューアルオープンに寄せて初代名誉館長に就任した矢口高雄さんは次のように発言しています。「世界に類例を見ない大発展を遂げて来た日本のマンガ文化」は「クールジャパンの代表格のように海外の人々から注目されている」と。貴重な「マンガ原画の収蔵」と、その「アーカイブ化」(デジタル化して保存)という事業に、美術館として本格的に取り組むことを漫画家として求めていらっしゃいます。
「クールジャパン」とは「外国人がクール(かっこいい)ととらえる日本の魅力」のことです。国も日本のポップカルチャーを形成してきた文化産業が、海外展開することを支援したり、また人材育成や知的財産の保護などを図ったり、官民一体の事業を展開しています。クールジャパン戦略担当大臣も置かれているのですよ!内閣府にだけ置かれる特命担当大臣です。内閣の重要政策に関する企画立案・総合調整を強力かつ迅速に行うことを使命としています。日本のみならず「まんが」に興味を持つ世界中の人たちが、「まんが美術館」で楽しく鑑賞ができるように、クールジャパン戦略の発展的な継続を望むところです。
2023.01.26
ビオトープ条例
福岡県北九州市「ビオトープ条例」
今回紹介するのは福岡県北九州市で制定された「ビオトープ条例」です。ビオトープというのは日本語にすると「生物の生息空間」という意味になります。ギリシャ語で「生物」を意味する「bios(ビオス)」と「場所」を意味する「topos(トポス)」の合成語で、ドイツで生まれた言葉なんですよ。工業の進展や都市化などによって失われた生態系を復元し、本来その地域にすむさまざまな野生生物が再び生息することができるようになった空間のことを指しています。そんなビオトープと北九州市には、どのようなつながりがあるのでしょうか?
北九州市が誕生したのは1963年です。門司市・小倉市・戸畑市・八幡市・若松市の5市が合併して新設されました。三大都市圏(首都圏・中京圏・近畿圏)を除く地域では初の政令指定都市の誕生であり、都道府県庁所在地以外の都市としても初めてのことでした。ですから福岡県の県庁所在地である福岡市よりも、政令指定都市になるタイミングは早かったことになります!市の北側は日本海(響灘)に、東側は瀬戸内海(周防灘)に面し、関門海峡を挟んで本州の下関市とは最も幅が狭い早鞆瀬戸において約650メートルの距離で向かい合っています。九州最北端の都市であるということもできますね。
合併した市の中に八幡市があることからも分かるように、北九州市の歴史を語る上で官営八幡製鉄所の存在は欠かせません。鉄の自給をめざした国家プロジェクトで、1901年に操業を開始しました。時代背景としては、明治政府の富国強兵政策があり、特に日清戦争(1894年~1895年)を契機とする鉄鋼需要に応じるために官営製鉄所建設案が帝国議会で可決されたことがあります。一漁村にすぎなかった八幡が製鉄所建設地に選ばれた理由はなんでしょう。製鉄に必要な鉄鉱石・石炭(コークス)・石灰石を手に入れやすかったからです。北九州市には筑豊炭田があり、石灰石も産出します。鉄鉱石は中国から船で輸入されるため、これらを結びつけるのに適した洞海湾沿岸の八幡が選ばれたのでした。ちなみに、平成27年にユネスコ世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産としても、北九州市の官営八幡製鉄所関連施設が選ばれていますからね。また、平成23年にユネスコ世界記憶遺産(世界の記憶)として日本で最初に選定されたのは山本作兵衛さんの「筑豊の炭鉱画」ですよ。これも覚えておきましょう。
洞海湾を母港とする北九州工業地帯は、日本の四大工業地帯の一つとして、重化学工業を中心に、日本の近代化そして高度経済成長を支えてきました。当時、工場群から立ち上る煙は「七色の煙」(酸化鉄の赤、炭素の黒、石灰の白など)といわれ、繁栄のシンボルとして旧八幡市の市歌にも登場するほどでした。「煙もうもう天に漲(みなぎ)る天下の壮観」とうたわれています。ところが、産業の発展は一方で激しい公害をもたらすことになりました。1960年代には北九州地域の大気汚染は国内最悪を記録することになります。洞海湾も工場排水により「死の海」と化していました。魚はおろか、微生物すら生息することのできない海です。高度経済成長の光と影をしっかりと理解しておかなくてはなりません。
物の豊かさが追求された高度経済成長期には、同時に四大公害病(水俣病・新潟水俣病・イタイイタイ病・四日市ぜんそく)を始め全国各地で公害被害が発生し、大きな社会問題となりました。国は1967年に公害対策基本法を制定し、1971年には環境庁を発足させます。公害防止のみならず環境保全に関わる総括的な対策を実施するためです。その後、環境問題は地球温暖化など多様化の時代を迎えたことにより、公害対策基本法を発展的に継承してより広い視点から環境問題に対処するため、新しく環境基本法が1993年に制定されることになります。現在も環境政策の指針となっていますよ。例えば2008年に公布された生物多様性基本法も環境基本法の下に位置付けられています。中央省庁再編に伴い環境省が発足したこともご存知ですよね。厚生省の所管であった廃棄物部門が環境省に移行したことも理解しておきましょう。
北九州市では環境改善が急速に進められました。かつての「七色の煙」「死の海」のまちから「緑の街」「星空の街」へと変貌をとげたのです。1992年にリオデジャネイロで開催された国連環境開発会議(地球サミット)では、日本の自治体では唯一となる「国連地方自治体表彰」を受けています。この奇跡的ともいえる公害克服と環境再生について北九州市環境首都推進室は「市民が公害に気づき、行政・企業・大学などが一体となって対策に取り組んできた」ことが最大の要因であると述べています。現在、北九州市は国から「SDGs未来都市」に、OECDから「SDGs推進に向けた世界のモデル都市」に選定されていますよ。
生物多様性基本法の施行を受けて、北九州市では「北九州市生物多様性戦略」を策定しました。生物多様性の確保に向けた施策を行い「都市と自然との共生」を実現するためです。その事業の一つが「響灘・鳥がさえずる緑の回廊創成事業」になります。響灘地区にある廃棄物処分場跡地に日本最大級の広さ41haの「響灘ビオトープ」を誕生させたのです。市民が生物多様性に配慮しながら自然とふれあえる魅力ある自然環境学習の拠点とすることを目的としています。平成24年に制定された「北九州市響灘ビオトープ条例」によって運用が進められていますよ。
かつて「公害の街」として知られた北九州市は、その克服の過程で蓄積された経験やノウハウを活用し、今や循環型社会づくりの実践モデル都市として日本のみならず世界の牽引役を果たしているのです!
今回紹介するのは福岡県北九州市で制定された「ビオトープ条例」です。ビオトープというのは日本語にすると「生物の生息空間」という意味になります。ギリシャ語で「生物」を意味する「bios(ビオス)」と「場所」を意味する「topos(トポス)」の合成語で、ドイツで生まれた言葉なんですよ。工業の進展や都市化などによって失われた生態系を復元し、本来その地域にすむさまざまな野生生物が再び生息することができるようになった空間のことを指しています。そんなビオトープと北九州市には、どのようなつながりがあるのでしょうか?
北九州市が誕生したのは1963年です。門司市・小倉市・戸畑市・八幡市・若松市の5市が合併して新設されました。三大都市圏(首都圏・中京圏・近畿圏)を除く地域では初の政令指定都市の誕生であり、都道府県庁所在地以外の都市としても初めてのことでした。ですから福岡県の県庁所在地である福岡市よりも、政令指定都市になるタイミングは早かったことになります!市の北側は日本海(響灘)に、東側は瀬戸内海(周防灘)に面し、関門海峡を挟んで本州の下関市とは最も幅が狭い早鞆瀬戸において約650メートルの距離で向かい合っています。九州最北端の都市であるということもできますね。
合併した市の中に八幡市があることからも分かるように、北九州市の歴史を語る上で官営八幡製鉄所の存在は欠かせません。鉄の自給をめざした国家プロジェクトで、1901年に操業を開始しました。時代背景としては、明治政府の富国強兵政策があり、特に日清戦争(1894年~1895年)を契機とする鉄鋼需要に応じるために官営製鉄所建設案が帝国議会で可決されたことがあります。一漁村にすぎなかった八幡が製鉄所建設地に選ばれた理由はなんでしょう。製鉄に必要な鉄鉱石・石炭(コークス)・石灰石を手に入れやすかったからです。北九州市には筑豊炭田があり、石灰石も産出します。鉄鉱石は中国から船で輸入されるため、これらを結びつけるのに適した洞海湾沿岸の八幡が選ばれたのでした。ちなみに、平成27年にユネスコ世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産としても、北九州市の官営八幡製鉄所関連施設が選ばれていますからね。また、平成23年にユネスコ世界記憶遺産(世界の記憶)として日本で最初に選定されたのは山本作兵衛さんの「筑豊の炭鉱画」ですよ。これも覚えておきましょう。
洞海湾を母港とする北九州工業地帯は、日本の四大工業地帯の一つとして、重化学工業を中心に、日本の近代化そして高度経済成長を支えてきました。当時、工場群から立ち上る煙は「七色の煙」(酸化鉄の赤、炭素の黒、石灰の白など)といわれ、繁栄のシンボルとして旧八幡市の市歌にも登場するほどでした。「煙もうもう天に漲(みなぎ)る天下の壮観」とうたわれています。ところが、産業の発展は一方で激しい公害をもたらすことになりました。1960年代には北九州地域の大気汚染は国内最悪を記録することになります。洞海湾も工場排水により「死の海」と化していました。魚はおろか、微生物すら生息することのできない海です。高度経済成長の光と影をしっかりと理解しておかなくてはなりません。
物の豊かさが追求された高度経済成長期には、同時に四大公害病(水俣病・新潟水俣病・イタイイタイ病・四日市ぜんそく)を始め全国各地で公害被害が発生し、大きな社会問題となりました。国は1967年に公害対策基本法を制定し、1971年には環境庁を発足させます。公害防止のみならず環境保全に関わる総括的な対策を実施するためです。その後、環境問題は地球温暖化など多様化の時代を迎えたことにより、公害対策基本法を発展的に継承してより広い視点から環境問題に対処するため、新しく環境基本法が1993年に制定されることになります。現在も環境政策の指針となっていますよ。例えば2008年に公布された生物多様性基本法も環境基本法の下に位置付けられています。中央省庁再編に伴い環境省が発足したこともご存知ですよね。厚生省の所管であった廃棄物部門が環境省に移行したことも理解しておきましょう。
北九州市では環境改善が急速に進められました。かつての「七色の煙」「死の海」のまちから「緑の街」「星空の街」へと変貌をとげたのです。1992年にリオデジャネイロで開催された国連環境開発会議(地球サミット)では、日本の自治体では唯一となる「国連地方自治体表彰」を受けています。この奇跡的ともいえる公害克服と環境再生について北九州市環境首都推進室は「市民が公害に気づき、行政・企業・大学などが一体となって対策に取り組んできた」ことが最大の要因であると述べています。現在、北九州市は国から「SDGs未来都市」に、OECDから「SDGs推進に向けた世界のモデル都市」に選定されていますよ。
生物多様性基本法の施行を受けて、北九州市では「北九州市生物多様性戦略」を策定しました。生物多様性の確保に向けた施策を行い「都市と自然との共生」を実現するためです。その事業の一つが「響灘・鳥がさえずる緑の回廊創成事業」になります。響灘地区にある廃棄物処分場跡地に日本最大級の広さ41haの「響灘ビオトープ」を誕生させたのです。市民が生物多様性に配慮しながら自然とふれあえる魅力ある自然環境学習の拠点とすることを目的としています。平成24年に制定された「北九州市響灘ビオトープ条例」によって運用が進められていますよ。
かつて「公害の街」として知られた北九州市は、その克服の過程で蓄積された経験やノウハウを活用し、今や循環型社会づくりの実践モデル都市として日本のみならず世界の牽引役を果たしているのです!
2022.12.04
茶の湯条例
島根県松江市「茶の湯条例」
今回紹介するのは島根県松江市で制定された条例になります。松江市は島根県東部にある県庁所在地で、山陰地方のほぼ中央に位置しています。ここでいう山陰地方とは、最も広い意味で当てはまる地域を指していますよ。地理的には中国地方の日本海側という意味で使われることが多いのですが、その場合は鳥取県・島根県・山口県北部を指すことになります。でも歴史的に考えるならば、山陰地方とは古代日本の律令制に基づいて設置された行政区画である山陰道に該当する地域を意味しています。丹波国・丹後国・但馬国・因幡国・伯耆国・出雲国・石見国それに隠岐国の8国です。そうすると京都府北部と兵庫県北部が加わることになり、逆に山口県北部は外れることになります。これらを合わせて考えて、京都府北部から山口県北部に至る日本海側を範囲だとするのが最も広義の山陰地方になるのです。ちなみに山陰海岸国立公園の範囲は京都府・兵庫県・鳥取県にまたがる日本海沿岸部になりますからね。
松江市に話を戻します。北は日本海に接する島根半島の北山山地、宍道湖と中海をちょうど挟み込むようにして、南は中国山地にまで広がる地域をふくんでいます。松江藩の城下町を中心に発展してきた山陰最大の人口を擁する中核市でもあります。鳥取県の境港市とも隣接していて、日本有数の水揚げ量を誇る境港にも程近いことが分かります。松江市出身の世界的なテニスプレーヤーである錦織圭選手が、全米オープンで準優勝をして帰国した際に「ノドグロが食べたい」と発言して話題になったことがありましたね。ノドグロというのはアカムツという魚の別名です。口の中が「黒い」ことから、そう呼ばれているのです。「白身のトロ」と言われるほど脂がのった高級魚として知られていますよ。松江市は海の幸が豊富であることも、錦織選手の発言のおかげで注目されるようになりました。
さて松江といえば「お城にお堀にお茶とお菓子」というフレーズがあるくらいです。「お城」とは言うまでもなく松江城のことですね。松江市街の中心部にある亀田山に築かれた松江城は、慶長16年(1611年)に築城されました。天守は全国に現存する12天守の一つで、入母屋破風の屋根が羽を広げたように見えることから千鳥城とも呼ばれています。現存12天守をここで確認することはしませんが、そのうちの国宝に指定されている国宝五城については覚えておいていいと思いますよ。東から順に松本城(長野県)・犬山城(愛知県)・彦根城(滋賀県)・姫路城(兵庫県)・松江城(島根県)になります。松江城の天守からは市街地や宍道湖が見渡せる素晴らしい眺望です。
「お堀」というのは松江城を囲む堀川のことで、松江城築城時につくられたものもありながら、その保存状態がよくて松江市は「水の都」「水郷」と称されることもあります。堀川を50分かけて小船で遊覧する観光コースは人気を博していますよ。こうした城下町のお堀を観光資源に利用するケースは他の地域にも見られ、特に滋賀県近江八幡市と福岡県柳川市はそれぞれ「近江八幡の水郷」「水郷柳川」と呼ばれる人気の観光スポットがありますので、こちらも覚えておきましょう。
そして「お茶」に「お菓子」というのが、今回取り上げた条例に関わる項目になるわけです。松江市は「お茶といえば抹茶」という土地柄であるといわれています。普通にお茶をのむように、さらさらと薄茶をたててのむというのです。薄茶は、抹茶を約2gに90度以上のお湯を約60ml注いで、茶筅を使ってシャカシャカ泡立てるようにまぜて作るものですよ。「お茶を点(た)てる」というのはこのことをいいます。市内には抹茶とお菓子を楽しめる茶寮や施設も数多く点在しています。
松江に「茶どころ」としての文化が根づいたのは江戸時代にさかのぼります。松江城主である松平家7代藩主松平治郷の功績です。茶道を家臣に定着させただけでなく、陶器や漆器、木工、茶菓子などの職人を地元で育成することにも力を注ぎました。茶道芸術を通して、建築や美術工芸や食の文化の発展をうながし、ものづくりの技量を高めたといわれています。それが今日の松江を支える産業となり、市民の暮らしを豊かにすることにつながっています。松江市は松平治郷の没後200年を機に「松江市茶の湯条例」を制定しました。2019年4月1日の施行です。茶の湯の文化と産業を将来的につなげていこうとするもので、市民も観光で訪れる方々も、茶の湯の心で松江に魅力を感じてほしいという願いが込められています。松平治郷の命日である4月24日は「茶の湯の日」と定められましたよ。ついでといってはなんですが、茶の湯を大成したのは千利休ですよね。その利休の出身地である大阪府の堺市には…やはりありました!「堺茶の湯まちづくり条例」です。施行されたのは、松江市に先立つ2018年10月1日になります。
また、中学受験の時事問題として提供しておきたい情報があります。2019年開成中学の社会の入試問題に次のような正誤問題が出題されました。「ウラジオストクと同程度の経度にある境港との間に、船の定期便が就航している」○か×か?という問題です。正解は○、フェリーが運行されていました。松江市産の牡丹(ボタン:島根県の県花。松江市が生産量日本一)がロシアに輸出されてもいたのです。ところが新型コロナウイルス感染拡大の影響で世界的なロックダウン(都市封鎖)が実施され、運輸・観光業界は大打撃を被りました。国連世界観光機関によれば、世界の観光業界における2020年上半期の損失は約48兆円にのぼり、これはリーマンショック(世界的な金融危機)後の2009年の損失の約5倍に当たるといいます。境港からのフェリーも集客の見通しが立たないとして、2020年の4月に廃業が決定してしまいました。
今回紹介するのは島根県松江市で制定された条例になります。松江市は島根県東部にある県庁所在地で、山陰地方のほぼ中央に位置しています。ここでいう山陰地方とは、最も広い意味で当てはまる地域を指していますよ。地理的には中国地方の日本海側という意味で使われることが多いのですが、その場合は鳥取県・島根県・山口県北部を指すことになります。でも歴史的に考えるならば、山陰地方とは古代日本の律令制に基づいて設置された行政区画である山陰道に該当する地域を意味しています。丹波国・丹後国・但馬国・因幡国・伯耆国・出雲国・石見国それに隠岐国の8国です。そうすると京都府北部と兵庫県北部が加わることになり、逆に山口県北部は外れることになります。これらを合わせて考えて、京都府北部から山口県北部に至る日本海側を範囲だとするのが最も広義の山陰地方になるのです。ちなみに山陰海岸国立公園の範囲は京都府・兵庫県・鳥取県にまたがる日本海沿岸部になりますからね。
松江市に話を戻します。北は日本海に接する島根半島の北山山地、宍道湖と中海をちょうど挟み込むようにして、南は中国山地にまで広がる地域をふくんでいます。松江藩の城下町を中心に発展してきた山陰最大の人口を擁する中核市でもあります。鳥取県の境港市とも隣接していて、日本有数の水揚げ量を誇る境港にも程近いことが分かります。松江市出身の世界的なテニスプレーヤーである錦織圭選手が、全米オープンで準優勝をして帰国した際に「ノドグロが食べたい」と発言して話題になったことがありましたね。ノドグロというのはアカムツという魚の別名です。口の中が「黒い」ことから、そう呼ばれているのです。「白身のトロ」と言われるほど脂がのった高級魚として知られていますよ。松江市は海の幸が豊富であることも、錦織選手の発言のおかげで注目されるようになりました。
さて松江といえば「お城にお堀にお茶とお菓子」というフレーズがあるくらいです。「お城」とは言うまでもなく松江城のことですね。松江市街の中心部にある亀田山に築かれた松江城は、慶長16年(1611年)に築城されました。天守は全国に現存する12天守の一つで、入母屋破風の屋根が羽を広げたように見えることから千鳥城とも呼ばれています。現存12天守をここで確認することはしませんが、そのうちの国宝に指定されている国宝五城については覚えておいていいと思いますよ。東から順に松本城(長野県)・犬山城(愛知県)・彦根城(滋賀県)・姫路城(兵庫県)・松江城(島根県)になります。松江城の天守からは市街地や宍道湖が見渡せる素晴らしい眺望です。
「お堀」というのは松江城を囲む堀川のことで、松江城築城時につくられたものもありながら、その保存状態がよくて松江市は「水の都」「水郷」と称されることもあります。堀川を50分かけて小船で遊覧する観光コースは人気を博していますよ。こうした城下町のお堀を観光資源に利用するケースは他の地域にも見られ、特に滋賀県近江八幡市と福岡県柳川市はそれぞれ「近江八幡の水郷」「水郷柳川」と呼ばれる人気の観光スポットがありますので、こちらも覚えておきましょう。
そして「お茶」に「お菓子」というのが、今回取り上げた条例に関わる項目になるわけです。松江市は「お茶といえば抹茶」という土地柄であるといわれています。普通にお茶をのむように、さらさらと薄茶をたててのむというのです。薄茶は、抹茶を約2gに90度以上のお湯を約60ml注いで、茶筅を使ってシャカシャカ泡立てるようにまぜて作るものですよ。「お茶を点(た)てる」というのはこのことをいいます。市内には抹茶とお菓子を楽しめる茶寮や施設も数多く点在しています。
松江に「茶どころ」としての文化が根づいたのは江戸時代にさかのぼります。松江城主である松平家7代藩主松平治郷の功績です。茶道を家臣に定着させただけでなく、陶器や漆器、木工、茶菓子などの職人を地元で育成することにも力を注ぎました。茶道芸術を通して、建築や美術工芸や食の文化の発展をうながし、ものづくりの技量を高めたといわれています。それが今日の松江を支える産業となり、市民の暮らしを豊かにすることにつながっています。松江市は松平治郷の没後200年を機に「松江市茶の湯条例」を制定しました。2019年4月1日の施行です。茶の湯の文化と産業を将来的につなげていこうとするもので、市民も観光で訪れる方々も、茶の湯の心で松江に魅力を感じてほしいという願いが込められています。松平治郷の命日である4月24日は「茶の湯の日」と定められましたよ。ついでといってはなんですが、茶の湯を大成したのは千利休ですよね。その利休の出身地である大阪府の堺市には…やはりありました!「堺茶の湯まちづくり条例」です。施行されたのは、松江市に先立つ2018年10月1日になります。
また、中学受験の時事問題として提供しておきたい情報があります。2019年開成中学の社会の入試問題に次のような正誤問題が出題されました。「ウラジオストクと同程度の経度にある境港との間に、船の定期便が就航している」○か×か?という問題です。正解は○、フェリーが運行されていました。松江市産の牡丹(ボタン:島根県の県花。松江市が生産量日本一)がロシアに輸出されてもいたのです。ところが新型コロナウイルス感染拡大の影響で世界的なロックダウン(都市封鎖)が実施され、運輸・観光業界は大打撃を被りました。国連世界観光機関によれば、世界の観光業界における2020年上半期の損失は約48兆円にのぼり、これはリーマンショック(世界的な金融危機)後の2009年の損失の約5倍に当たるといいます。境港からのフェリーも集客の見通しが立たないとして、2020年の4月に廃業が決定してしまいました。