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2017.03.02 「成長神話」
「成長神話」

 「神話」と聞くと、皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょうか。「古代の神聖な物語とか?」「神様が出てくるお話でしょう?」そうですよね。一般的なイメージとしては、この世界がどのように成立したのかを説明する宗教的な物語=創世神話のことが頭に浮かんできますよね。全知全能の神や圧倒的な力を持つ英雄が登場してくるようなオハナシです。現代人である皆さんの目から見れば「科学的な説明とは言えない」ということになってしまい、古代人の作り話に過ぎないと認識されてしまいます。そのために「神話」といえば「物語的なもの」「空想的なもの」もっと言うならば「荒唐無稽(こうとうむけい)なもの」を意味することにもなるのです。現代に置き換えるなら、「マンガ」に近い意味合いになるのでしょうか。忍術を駆使した超人的なバトルを描いた作品とか、ありますよね。けれども古代人にとっては、単なる空想ではなく紛れもない事実(信じうるに足る出来事)として考えられてきたのですよ。ここがマンガと違うところといえるでしょうか。
 このことから転じて、根拠も無く絶対的事実だと思われている事柄をたとえて「◯◯神話」と表現することがあります。「安全神話」という言い回しを皆さんもテレビニュースなどで耳にしたことがあるのではないでしょうか。「絶対に安全です!」と繰り返し強調されていた施設が、あっさりと壊れてしまった…。想定外の出来事でした、と釈明したところで言い訳にもならないはずですが、誰もが「まさか本当に壊れることがあるなんて思いもしませんでした」と口をそろえてしまう。「安全」を単なる空想ではなく、紛れもない事実であると信じていたがゆえですよね。「神話」とたとえられるのはこのためです。これが「マンガ」であれば、「安全マンガ」という言い回しとなり、こう言ってしまえば誰も「絶対に安全だ」なんて思いもしなかったでしょうにね。
 さて今回取り上げた四字熟語は「成長神話」です。「成長神話の終わり」や「成長神話からの脱却」といったフレーズが盛んに使われているように、最近では「ずっと成長が続くなんて考えるのは間違いだ!」という論調が主流です。ここでいう「成長」とは、もちろん「経済成長」のことです。どこの国の政治も経済成長を最大の目標にしているのですが、結局それは幸福や満足とは結びつかないのではないか?という批判がなされているのです。「経済成長は幸福を作りだすものではなく、不幸によって維持されるものなのだ」といったようにね。この逆説が理解できるならば、あなたの読解力は極めてハイレベル!ですよ。
 経済「成長」などと言わずに、経済「拡大」と言えば、神話的なニュアンスも薄れて実情に即したものになるのですが…そこはやはり「成長」というマジックワードが鍵となっているのでしょう。「子供の成長」という表現に典型的なように、誰もが望む肯定的な事柄を意味しているのが「成長」という言葉なのですから。先生に「お、随分と成長したな!見直したよ」と声をかけられて、不愉快な思いをするなんてことはありえないでしょう?日々の学習を続けていても、本当に学力が身についているのか…なかなか自分では確認できませんからね。思ったようにテストの点数が上がらないときには、なおさらです。「勉強の仕方が間違っているのだろうか?」「このまま続けても意味がないのでは…」、マイナスの思考が募ってしまいます。そんなときに、「間違いなく成長している!」と、客観的に指摘してもらえたら、どれほど勇気づけられるか。
 教育の世界では「成長神話」は不滅だと思いますよ。昨日よりも今日の自分は前進している。今日よりも明日の自分は力をつけている。そう思えばこそ、継続して学習ができるのですから。経済「拡大」神話は、子どもの成長を願うポジティブな思いの流用に他ならないということです(笑)
2017.02.02 機運が熟する
「機運が熟する」

 「機運」とは「ものごとがうまくいきそうな、めぐりあわせ」のことです。「機運が熟する」とは、事を行う情勢が十分に整ってくる、という意味を表す慣用表現になります。ここでいかにもオトナの言い回しに相応(ふさわ)しいといえるポイントが、「熟する」という表現を使用しているところですね。「熟」という言葉が「熟年」をすぐさま連想させるからではありませんよ!そもそも「熟年」という表現は、七十年代の後半にできた造語なのです。今では「熟年離婚」なんて見出しが紙面に踊っていたりしますので、すっかり定着した観がありますが…実は比較的新しい言葉なのですよ。急速に日本社会の高齢化が進んで、「働きざかりとは言えないが、老人と言われるのはちょっと…」という年代が増加したことによって、苦肉の策で?生み出されたボキャブラリーであったわけです。
 閑話休題。「熟する」に話を戻します。「円熟」という熟語を思い浮かべてください。用例としては「円熟した芸風」といったように、芸事の世界で誰からも「立派なものだ」と思われるくらい、芸や技が十分に上達していることを意味する言葉ですね。ですから、この「機運が熟する」も、時のめぐりあわせというチャンスが到来した!あたかも偶然に、というニュアンスを醸(かも)し出しながら、その実しっかりと下準備はしてきたことに含みを持たせることができるわけです。お分かりでしょうか。非常に高度な政治的判断を伴う態度表明の際に使用されるケースが多いと言うことができます。すなわち、「決して成り行きまかせではない」という意味合いを込めて使われる、ということですね。
 その「成り行き」を表すことばに「気運」があります。どちらも同じ「きうん」なのですが、意味合いが異なります。それは「機」と「気」のそれぞれの漢字の持つ意味合いの違いによるものです。「機」は、「あることをするのに、ちょうどいいとき。ものごとの起こるきっかけ。」という意味。「気」は、「その場にただよっているもの感じ。目に見えない働き。」という意味。ですから「気運」を使う場合には、時世のなりゆきによってある一定の方向が示されている、というケースが多いですね。用例としては「気運が高まる」という表現になります。
 「改革の機運が熟した」と「改革の気運が高まった」では、同じような表現で、随分とニュアンスが違うのですよ。このあたりの「使い分け」を意識して、演説を聞く際にもチェックしてみて下さいませ!
2017.01.06 君子豹変
「君子豹変」


「君子は豹変す」という使い方をする慣用表現ですが、教え子にこの言葉の意味を確認したところ…本来の意味とはかけ離れた「トンデモ」イメージで理解してしまっているケースが大変多いという事実に直面いたしまして(汗)。急きょ、解説をしてみようと思い立ったわけです。
「王様みたいに偉い人は、突然キレて、豹みたいに怒りまくる!」という暴君のイメージを思い描いている生徒が目立ちましたが、全部(笑)間違っています。そもそも「君子」を「君主」と勘違いしてしまっていますよ。「君主」は確かに、「世襲によって位につく統治者」のことですが、ここでは「君子」ですよ、「君子」。王様ではありません。「徳が高く品位のある人格者」を意味する言葉なのです。「君子は危うきに近寄らず」という表現を聞いたことがあるでしょう?人格者と呼ばれる人物は、身をつつしみ守って危険をおかさずにこれを避ける、という意味ですね。ついでに確認しておきましょう。「聖人君子」という四字熟語も知っておいて下さい。「学識、人格ともに優れた理想的な人物」という意味になりますからね。
さらに「豹変」については、「豹に変身する」という文字通りのイメージで、おとなしかった人が豹のように獰猛(どうもう)に一変する、という理解を示している生徒が多く見受けられました。これも間違いです。「気弱なウサギから猛々(たけだけ)しい豹に変身!」といったようなメタモルフォーゼを意味しているのではなく、「豹変」とは、「豹の斑紋(はんもん)が、季節の変わり目に抜け替わって、美しく一変する」という意味ですからね。決して「豹に変身する」わけではないのです。
「でも先生、意味はそんなに間違っていないんじゃないですか?」と、粘る生徒もいます。「立派な人でも機をみて態度や考えを安易に変える」とか「突然、本性を現して恐ろしい人物に一変する」といった、否定的な意味で使われること自体は、イメージしている通りではないですか?という意見ですね。確かに、辞書にも次のような文例が出ています。
「君子豹変す、というが、あの男の変わり身の早さには感心するよ」。明らかに否定的な意味合いですね。態度を一変させることに対して、あきれている様子です。ところが、辞書には次のような説明が続くのです。「誤用が定着したもの。今では誤りとは言い切れないが、本来の意味からは遠い」と。さてこれは、一体どうしたことでしょう。
とにかく本来の意味を確認してみましょう。そもそもこの言葉は、中国の古典『易経』の「君子は豹変す。小人は面を革(あらた)む」に由来するものです。徳のある君子はすばやくはっきりと誤りを正すが、徳のない人は外面だけを改める、という指摘なのです。「徳のある人」の態度と、「徳のない人」の態度を対比させて、「過ちを速やかに改めること」を評価して、肯定的にとらえているものだったのですよ!英訳するとこの意味がはっきりと理解できます。‘A wise man changes his mind, a fool never.’お分かりでしょうか。「愚か者は決して改めない」というところが実はポイントなのです。
ですから本来は、『論語』の中に登場する「過ちては改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」という言葉にも相通じるところがある表現なのですが、教え子たちが否定的なニュアンスでとらえているように、最近では特に、節操なく変わり身が早い、という悪い意味で用いられるようになっています。もしかしたらそれは、豹という動物の凶暴なイメージの連想からきたものなのかもしれません。辞書による説明でも「もとは、よい方への変化を言ったが、今は前言を平気でがらりと変えるなど、悪い方を言うことが多い」と、最近のとらえ方をわざわざ紹介しているほどです。
皆さんにあらためて確認してもらいたいのは、この「よい方への変化」という意味合いです。本当にひとかどの人物であれば、変化や改革を恐れはしません。必要があれば、あるいは過ちと分かれば、がらりとやり方や態度を変えるということもあるのです。ところが、小人は、表面上はそれを受け入れるそぶりをしつつも、旧来のやり方や面子にとらわれて、古いやり方や一度口にした自説にこだわってしまう。思い当たる節はありませんか?「こんなやり方ではダメだ」とうすうす気づいていながら、根本的に変えてしまうこと自体を恐れて、「とりあえず今のままでいいや」と決断を先延ばしにしてしまう…。結果の出ていないやり方にもかかわらず、「今までこれでやってきたから」と惰性で続けてしまう…。どうでしょう、身につまされることはないですか?変える!という決断には、どうしても勇気が必要になりますからね。
人は意見がぶれる人のことを信用しないものですが、意見を変えるなら変えるで、はっきりと表明すれば理解されることもあるのです。ところが、言を左右にして誤魔化そうとするから信用されなくなってしまうのです。日本の政治家が信用されないのは、まさにそのためですよね。意見を変えるときには、勇気を持って徹底的に変えることも極めて重要なのですよ!
2016.12.03 実際問題
「実際問題」

 「頭の中で考えるのではなく、われわれが生活する場に臨んでの」という意味を表す四字熟語ですね。用法としては「実際問題として…こうなる」といったように、後に続く文に副詞的にかかっていくパターンがほとんどです。
 同様な表現としては、いくつか挙げられると思いますが、「実のところ…」や「本当のところ…」や「有体に言えば…」などでしょうか。「有体」は「ありてい」と読みます。意味は「ありのまま」ということですね。
 では「実際」の反対語はなんでしょうか?「実際にはない、頭の中で作り上げたこと」を意味する言葉。「虚構」が当てはまるでしょうね。でも「虚構問題」という四字熟語はありません。「実際に」という言葉はあっても、「虚構に」がないのと同様です。
 一昔前?に経験豊かな人がくれたアドバイスといえば「実地が大切だ。机上だけでは空論に終わりかねない。」というものでした。「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!」という名台詞も同様の趣旨と考えられます(笑)。いわゆる「机上の空論」を振りかざすのはやめろ、という意味になるわけですね。
 「机上」を英語で言うと?「デスクトップ」になります。デスクトップコンピューターで情報処理されるシミュレーションは、今や「実際問題」を考えるにあたって、必要不可欠なものとなっています。ですから昨今の実情をふまえたアドバイスとしては「いきなり実地では失敗しかねない。机上でのシミュレートをしっかりと行え」というものになるのではないでしょうか。
 より規模の大きな話をしますと、地球環境問題を「実際問題」としてどう考えるか、ということになります。「二酸化炭素の濃度が上昇したらどうなるか、実際に試してみよう」という話にはならないということはお分かりでしょう。スーパーコンピューターを使ってのシミュレーションが大きな鍵を握ることになります。それでも、例えば自動車の安全性を確認するために、今でも本当に車をぶつけて試してみるという衝突実験が行われています。「やはり実際にやってみないと分からない」と言うことなのでしょうか?実は、これ、今のスーパーコンピューターではまだシミュレーションができないという計算能力の問題で、派手に衝突させたいわけではないのです。
 「国家基幹技術」と位置付けられる次世代スーパーコンピューターです。「世界一になる理由があるんでしょうか?二位じゃダメなんでしょうか?」と言われても…。ダメなんですよ、実際問題(笑)。
2016.11.04 迷宮入り

「迷宮入り」

 「解決しない難事件」のことをたとえて「迷宮入り」と言ったりしますね。「迷宮」というと、皆さんはどのようなイメージを持ちますか?宮殿のような大きな建物の中で、たくさんの部屋や通路が迷路のようになって入り組んでいる…そんなとらえ方ではないでしょうか。実は「迷路」と「迷宮」では、厳密な意味では全く対照的な特徴を持つものであることを皆さんはご存知ですか!
 迷宮といえば誰もが思い浮かべる「クレタ島のクノッソスの迷宮」がありますが、このギリシャ神話に登場する世界最古の迷宮、牛頭人身の怪物であるミノタウロスが閉じ込められているのが「ラビュリントス」ですね。迷宮内には余すところなく通路が組み込まれているのですが、実はその通路は全く交差せずに、ただただ一本道を他の選択肢もなく突き進むだけだということを、意外と皆さん知らないのではないでしょうか。入口から迷宮の中心に向かって進んでいくことになるのですが、通路は何度も中心のそばを通りながら、振り子のように方向転換して、徐々に中心点に近づいていくことになります。そしてようやく中心点に到達したと思ったら、そこに出口はなく、今度は全く同じ道を通って、入口まで戻って脱出しなくてはならない。これが「迷宮」なのです。「分かれ道」や「行き止まり」「通る必要のない道」が多数存在し、入口=スタートと出口=ゴールのある「迷路」とは対照的であることがはっきりとお分かりいただけると思います。
 ですから、「ラビュリントス」に入ったら、ミノタウロスに遭遇しないでやり過ごすことはできません。隠れるわき道もなければ、分かれ道で避けることもできないのです。必ずぶつかって、対決しなくてはなりません。
 このことを理解して、「迷宮入り」という言葉をもう一度考えてみるならば、「解決しない難事件」であってもそれは、「必ず決着をつけなければならない」という意志が読み取れるように思いませんか?もちろん逆に「ゴールがない」という意味にもなるのですが(笑)。
2016.10.01 不易流行
「不易流行」

 「ふえきりゅうこう」と読みます。「不易」とは「その本質が永遠に変わらないもの」を意味します。「易」という言葉が「変わる」という意味ですので、それを打ち消して「変わらない」となるのですね。古今不易や千古不易という四字熟語もありますよ。そういえば「フエキ糊(のり)」ってご存知でしょうか?大阪の文具メーカーが1898年に発売して以来のロングセラー商品なのですが、この「フエキ」も「不易」です。つまり「永遠に変わらない」品質を誇るという自信の表れがブランド名となったのですね。キンモクセイの香料で香り付けされた「フエキ糊」は、田中が幼いころに熱中した「紙工作」に欠かせないアイテムとして、その香りとともに思い出をよみがえらせてくれます!オイルショック後の昭和の時代ですね。雑誌の付録といえば、紙を切ったり貼ったりで作り上げる「工作」が主流だったのですよ。話がそれました。一方の「流行」は、お馴染みの熟語ですよね。「時代とともに変化するもの」を意味することはご承知の通りです。それでは、この相反する意味の熟語を組み合わせることで形成された「不易流行」という四字熟語は、一体どのような意味を生み出そうという意図が込められているのでしょうか?
 ここで「不易流行」という用語の生みの親である人物を紹介してみましょう。その人物とは、皆さんもよく知る江戸時代の俳人、松尾芭蕉なのです。芭蕉によれば、「不易」と「流行」は本質的に対立するものではなく、真に「流行」を得ればおのずから「不易」を生じ、また真に「不易」に徹すればそのまま「流行」を生ずるものだ、というのです。どういう意味でしょうか?俳句は「世界一短い文学」とも言われています。たった十七音で詩を形づくるワケですから。それを文学作品として成立させるためには、絶えず新しい句材を求め、新しい表現を心掛けなければなりません。気を抜けばすぐに陳腐で類型的な句しか得られなくなってしまいます。そうした危険性を意識して、絶えず新しさを追求して行くことが「流行」といわれる中身になるのです。「流行」を追うことが俳句という文学=「不易」を生み出すのです。一方「不易」とは、俳句として存立する不変の条件のことです。五七五の十七音形であること、季語の存在、「切れ字」と呼ばれる表現技法など、いくつかの原則を不変の鉄則として維持しなくては、俳句ではなくなってしまいます。俳句を俳句たらしめるアイデンティティーと言ってもいいでしょう。この「不易」である俳句の形式によって「流行」を表現することが可能になるのです。
 「あれもいいな」「これもいいいな」といっては新しいものを追い求める「流行」だけではなく、「これがいい」「これで間違いない」という伝統に根付いた「不易」を意識しなくてはなりません。別の四字熟語を使って表現するならば、それは「温故知新」ということでもあります。よき伝統を守りながら=「不易」、進歩に目を閉ざさない=「流行」、ということ。そうすることではじめて理想が追求されるのだと芭蕉は言います。歴史を踏まえること=「不易」、そして現実を踏まえること=「流行」。そのことによって、未来を思考することが可能になるのだと。
 私も、「新」を求め続け=流行、「古」を顧みる知恵=「不易」を失わないように、学び続けていきたいと思います!
2016.09.14 危機管理
「危機管理」

 九月一日が「防災の日」だというのはご存知ですよね?地元で開催された防災訓練などに参加した皆さんも多いことでしょう。あらためて、災害に対する備えや心構えは万全だろうか?と自問するよい機会でもあります。言うまでもありませんが、九月一日は、関東大震災(大正十二年)が発生した日です。十四万人以上の死者と四十四万棟以上の家屋焼失を招いた大震災でした。九月一日を「防災の日」と定めたのは、この甚大な被害を忘れないようにするためと、暦の上では二百十日にあたり台風シーズンをむかえることからも、国民に注意を喚起する目的で、昭和三十五年六月十七日閣議の了解のもとに決定されたのです。
 地震や豪雨などの災害は、いつどこに襲いかかるかわかりません。家庭や地域、学校などで日ごろから避難場所や非常用品の確認を行っておきましょう。備蓄食料は最低でも三日分の用意をしておきましょう。ひとりで一日に必要な飲料水は3リットルぐらいですからね。「非常持出品」は、すぐ持ち出せる場所に置いておきましょう。ついでに言うと、緊急避難のときに持って逃げる「非常持出品」と災害後の生活をささえる「非常備蓄品」は、分けて備えておきましょう。
 こうした、いつ起こるかわからない自然災害や危機事象に備えて、予め体制を整えておくことは、とても重要なことです。皆さんがお住まいの自治体にも「危機管理室」といった部署が置かれ、住民の生命や財産を守るために、日々防災力の向上に取り組んでいると思います。
 さて、この「危機管理」という言葉ですが、もとは英語になります。「管理」は英語でmanagement・マネジメントです。ピーター・F・ドラッカーの『マネジメント』という本が有名ですが、英語でマネジメントと言えば「管理」とともに「経営」も意味します。ビジネスマンが読む経営書ですね。その経営書を、マネージャーの「ハウツー本」だと勘違いして、女子高生が手にとってしまうという設定なのが、ベストセラーとなった『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』です。ドラマにもアニメにもなりましたので、皆さんもご存知ですよね。
 では「危機」の方はどうでしょうか。実は、日本語の「危機管理」という言葉は、二つの英語の言葉を、両方意味しているという状況になっています。一つはcrisis  management・クライシスマネジメント。もう一つはrisk management・リスクマネジメント。クライシスとリスク、ともに「危機」と日本語表記されることがありますが、この二つの言葉の持つ意味合いは、随分と違うものなのです。
 クライシスというのは、既に発生した事態を指しています。これに対してリスクというのは、まだ発生していない危険を指します。ここから、クライシスマネジメントとリクスマネジメントの違いが見えてくると思います。つまりクライシスマネジメントというのは、既に起きた事故や事件に対して、そこから受けるダメージをなるべく減らそうという発想なのです。ですから、大災害や大事故の直後に設置される「危機管理室」というのはクライシスマネジメントのことになるわけです。ぴったりとくる日本語は「善後策」になると思います。
 これに対してリスクマネジメントは、これから起きるかもしれない危険に対して、事前に対応しておこうという行動になります。ですから、今後予想される首都直下地震に備えて、現在各自治体に設置されている「危機管理室」の方は、リスクマネジメントのことになるわけです。こちらのぴったりくる日本語は「最善をつくす」になるでしょうか。
 クライシス(Crisis)の語源は、「将来を左右する分岐点」という意味だそうです。既に起きた事態を扱うということは、どうしても受動的になります。マイナスをいかに減らすかが目的となりますから。それでも、ダメージからうまく回復して、プラスの方向に向かわせるという点で、重要なことなのです。
 リスク(Risk)の語源は、「絶壁の間を船で行く」という意味だといわれています。たとえ両岸が絶壁であっても、あえてそこを越えないことには将来もひらかれないというわけです。リスクは、自ら覚悟して突き進む危険という意味にもなるのです。
身近な例にあてはめてみましょう。外出するときに雨が降ってもぬれないですむよう、折り畳みの傘を用意していくのはリスクマネジメントですね。これに対して、傘を持たずに出て雨に降られてしまい、あわてて雨宿りの場所を探したり、コンビニでビニール傘を買ったりするのはクライシスマネジメントです。
 受験の世界での「危機管理」は、リスクマネジメントと考えたいですね。どんな入試問題が出題されても対応できるように準備しておくこと、ですね。そして、入試当日に熱を出したりしないように、インフルエンザの予防接種を受けておくこと、ですよ!
2016.08.09 先憂後楽
「先憂後楽」

文京区にお住いの皆さまに限らず、「後楽園」という地名はよく耳にするのではないでしょうか。東京ドームの最寄り駅としてご存じの方も多いかと思います。ちなみに田中は東京ドームから徒歩5分のところに住んでおりますが、住所は小石川ではなく本郷です。この地域は昔、水戸藩が江戸屋敷を構えていたところで、その庭園の名が「後楽園」であったことに地名の由来があります。そして今でも、東京ドームに隣接するその場所に、「小石川後楽園」は都会のオアシスのように存在しているのです。庭園そのものは、江戸時代の寛永年間に水戸藩の始祖である徳川頼房が作り、「後楽園」と命名したのはその子供である徳川光圀です。水戸黄門でお馴染みの、光圀ですよ。光圀は、為政者(政治を行うもの)としての心構えを片時も忘れないよう、庭園に「後楽」の名をつけたといわれています。ちなみに、日本三大庭園の一つである岡山の「後楽園」は、江戸時代の貞享年間に、岡山藩主池田綱政が同じ精神でこれを作ったとされています。三大庭園はご存じでしょうか?水戸の「偕楽園」、金沢の「兼六園」、そして岡山の「後楽園」になります。小石川の「後楽園」は残念ながら入っていません。
さて、その心構え=精神とは?それが今回取り上げた「先憂後楽」であります!
「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」。つまり、政治家たるもの、「心配ごと」についは、世の中の誰もが気づかないうちから心がけてその問題を解決することに努めなくてはならないということ。さらに、「楽しみごと」については、政治が立派に行われて世の中のすべての人が楽しむようになった後に、ようやく楽しむようでなくてはならないということ。この教えは、中国は北宋の范仲淹(はんちゅうえん)が、『岳陽楼記』(がくようろうのき)の中で述べたものです。
政治家たるもの、すべからくかくあるべし!と、強く思うのですが…全く逆の政治家が目についてしまう昨今だと、皆さんもテレビ画面のニュース報道を通じてお感じなのではないでしょうか。「天下の楽しみに先立って楽しみ、天下の憂いに後れて憂える」という体(てい)たらく。いい加減にしろ!との声を真摯に受け止めなくてはならないと思います。
さてさて、閑話休題。テレビドラマの「水戸黄門」でお馴染みのフレーズ「人生楽ありゃ、苦もあるさ」は、この「先憂後楽」の思想をふまえているハズ?なんですが、為政者の心構えとしてだけではなく、人生訓として「先憂後楽」を捉えた場合、「先に苦労・苦難を体験した者は、後に安楽になれる」という指摘にもなります。コレ、学習についてもまた然(しか)りですよ!新しい単元を学習し始めたときには、なかなか理解ができないことが多く、時間がかかるものですよね。何でも最初の頃が一番辛いのです。よく知らないことをやるというのは、誰にとっても苦痛なのですよ。でもやりぬいた後では、「今となってはとても簡単に感じる」という経験を、皆さんもお持ちでしょう。掛け算の「九九」にしたってそうなのですから。学習は最初こそ、厳しく苦しいのですが、後々どんどん楽になっていきます!とにかく、最初が肝心。基礎を固めることです。これが「先憂後楽」です!と教育者としても発言しておきたいと思います。
2016.07.22 味方千人
文字通り「自分には味方が千人いる!」という意味を表す四字熟語ですが、言い回しとしてはこの後「敵千人」と続くところがポイントになります。「味方千人、敵千人」。意味合いとしては「味方が千人いれば敵も千人いる。人は誰でも、味方を持っていれば敵も持っているもので、一人の味方もなく一人の敵もないなどという人はいない」ということになります。人生訓(人間の生き方についての教え)として受けとめられている言葉ですね。何かの故事に由来した「故事成語」かと思ったのですが、特にいわれとなるような出来事は見当たりませんでした。昔から語り継がれた「ことわざ」だと言えるでしょう。
田中自身、この「味方千人、敵千人」というフレーズは、政治家生活三十年という先輩から教えてもらうまで、知りませんでした。「自分の名前を投票用紙に書いてもらう」という選抜選挙を、三十年間無敗でくぐり抜けてきた先輩です。皆さんの中にも、某国民的アイドルグループの「選抜総選挙」を、テレビ中継を通じて、あるいはニュース等でご覧になった方がいるかと思いますが、数多(あまた)いる候補者の中から、不特定多数のファンによって「この人しかいない!」と推(お)された人物だけがスピーチを披露するという、毎年恒例となっているイベントですね。単純に見える人気投票という行動が、いかに複雑な要素をふくんだ大変なものであるか。「圏内」に誰が入るのかという予想が困難を極めることからも、その難しさが分かるというものです。でも、本当の難しさ、その厳しさは、「候補者」になってみなければ分からないと思いますよ(笑)。「握手会」という公開イベントについても報道されていましたが、事件が起きてニュースになっていましたね。ちなみに、「選挙の神様」と呼ばれた田中角栄元総理は次のようにおっしゃっていました。「有権者と握手した数しか票は増えない!」とね。そのことをふまえた「握手会」なのでしょうか?
閑話休題。「味方千人」についてです。選挙において安定した強さを保ち続ける先輩に、ぶっちゃけ聞いてみたのですよ。「どうやって三十年間も変わらぬ人気を維持し続けることができたのですか?」って。そうしたら返ってきた答えが「味方千人、敵千人」だったワケです。
「敵を作らずに誰からも好かれようとすると、結局誰からも好かれない。たくさんの人に好かれるためには、嫌う人がたくさん現れることを怖れてはいけない。」人気者であろうとすると、かえって人から一票を託されなくなるという現実を知り尽くした、先輩からのするどい一言でした。「自分を支持してくれる人」をターゲットにするということは、ある意味で「絞り込み=切り捨て」を行うということでもあるのです。切り捨てをしなければ、照準はどこにも合わせられないですから。でもこれは勇気がいりますよね。誰に対しても「いい顔」を人はしたいものです。でも、次のようにも考えなくてはなりません。「何事かを成すとき、全ての人から賞賛されることなどありえない」と。そのときの判断の基準として、支持する人が千人、支持しない人が千人。このあたりが落としどころだ、ということになるのです。